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メノモソはmusica-dueの一部です
02.10.01(Tue) DV(ドメスティックバイオレンス)
 日本において事件が発生しない日はもはや有り得ない。何らかの傷害事件が紙面やテレビを賑わす毎日。いつからこんな日本になってしまったのでしょう。少なくとも僕の小さい頃、ここまで頻繁に事件はなかったはず。
 幼児への虐待、家庭内の暴力。僕は平和主義者だし、ものごとを腕力で解決しようだ何て思わないのだけれど、中にはそういう人もいる。女性には手を決して上げてはいけない、僕は両親にそう教えられて育ちました。だから仮に怒ったとしても、口で罵るのが関の山だと思うのです。

 しかし、最近ではそういう傾向も崩れ女が男に対し乱暴を働く、そういうのも珍しくないのでは。ストレスで気持ちをぎゅうぎゅう詰めにされ窒息しそうな環境が、暴力という方向へ向かってしまうのでしょうか。何とも悲しいことです。

 母も子どもの頃に暴力を振るわれたことがあるそうです。それはそれは恐ろしいもので、全く眠れず、一人部屋の隅で泣いていたと聞きました。悲しいことです。やっぱり、同時代の多くの子がそうやって暮らしたのでしょうか。時代は関係ないのでしょうか。
 まぁ、彼女などにちょっと甘えたように軽くぶたれたりするのは、嫌いではないです。すねた感じでばかー、なんて言われるのは悪くない気がします。そういうのは暴力とは言わないで、愛情と言うんですけどね。

 僕も今、軽くぶたれたりしています。あんまりこういうことってないんですよ。いや、あっても慣れていないから困ってしまいますけれど。今日は夕方からずっとこんな感じ。困ったものです。そのうちエスカレートしてくるのではないか、本格的に暴力を振るわれたらどうしよう、など思わず考えてしまいます。
 ほら、今も結構キツイ一撃でしたよ。こうやってコンピュータに向かい、文を書いていてもやってくるのだから、性質(たち)が悪くないですか?

 僕は平和主義者だし、ものごとを腕力で解決しようだ何て思わないのだけれど、中にはそういう人もいる。女性には手を決して上げてはいけない、僕は両親にそう教えられて育ちました。だから仮に怒ったとしても、口で罵るのが関の山だと思うのです。

 でもね、僕だって手を上げたい状況だってあるのです。例えば今のこの状況。さっきからバシバシ叩いて。だんだんイライラしてきました。むかついてきます。でもここはぐっと我慢です、親からもそう教えられてきました。冷静な性格のはずです。しかし体から燃えたぎる何かが湧いてくるような気がします。だんだん押さえが聞かなくなってきました。くそっ、くそっ、何てことだ!押さえねば、押さえねば!!うらぁー!!!

 台風のバカー!なんでそんなに窓バンバン叩くんだよ!部屋締め切らなくちゃいけないから暑いんだよ!なにかしたくても音うるさくて気が散って出来ないんだってば!名古屋生まれの母も伊勢湾台風を思い出すと言っているってば!

 台風はこれから日本を横断するとの予報。国内で振るわれる暴力、まさにドメスティックバイオレンスなのです。

First Step

 身近な人からの暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)。もし愛すべき人から身体的、精神的、性的暴力行為を受けていたなら、一人で悩まないできちんと然るべき措置をとった方が良い。僕の友人もずいぶん悩み、傷つき、つき合っていた人と別れてしまいました。悲しいことです。

02.10.02(Wed) 一つの鍵穴二つの鍵
 たった一つのものを求めている、そんなに多くのものはいらない。必要もない。鍵穴にはたった一つの鍵が必要で、鍵にはたった一つの鍵穴が必要なのです。その二つが出会ったとき、初めて扉は開かれる。

 一人の男がありました。その男は女と相性が良く、数年ほど一緒に暮らしていたのです。貧しいながらも、ひっそりとつつましく。相思相愛とはこのことをいうのでしょう。お互いを信頼し合い、女は男がどこかに行ってもじっと待つ。男も信頼に応えるべく、また女の元に帰るのです。
 しかし男は謎の失踪をしました。その不可解な失踪を目の当たりした女と僕は必至に男を探す。方々を巡りました。あんなに男を信頼していた女があまりにかわいそうじゃないですか。だけれど、男は見つかりませんでした。

 男にすっかり失望した女と僕だったのですけれど、僕は新たな男を紹介してあげました。あれよあれよと言う間に二人が付き合うのを見て、紹介した僕もほっと胸をなで下ろす。悪い男ではないので、二人は絶対うまく行くと僕には確信がありました。
 機械が油切れを起こしたように、ぎくしゃくとした時もありましたけれど、二人はどんな苦難も乗り切ってきたよう。どんな障害も苦にしない、そんな力強ささえ感じられる。

 前の男をすっかり忘れたんだろう、良かったなぁ。きっとお互い、たった一人の男とたった一人の女に巡り会えたのでしょう。もう三年も付き合っているので、きっと生涯を共にするのだろうな。そう思いたかった、そうであって欲しかった。だけれど運命の悪戯か、事件は起こりました。

 台風一過の良く晴れた朝。女はしきりに体調の不良を訴えていました。どこか良くない気がする、何だか変な気がする。でも男には彼女がいつも通りに見えました。
 男は女と一緒に外の空気を吸うために外にでて、しばらく町を歩いていたのです。でもそれがいけなかった。男がちょっと目を離した隙に女はフラフラと歩き出し、あっと思った瞬間には車輪に巻き込まれていたのです。男にはどうすることも出来ません。女がぐったりと横たわり、息も絶え絶え。最後の力を振り絞り、男に言葉を残しました。

「あなたが最後の人でよかったわ。ありがとう、そしてさようなら」

 男は泣きました。僕は横たわる女と慟哭する男を見て、胸が締め付けられ、なんともいたたまれなくなったのです。もう女は戻りません。これが二人に与えられた定めとでも言うのでしょうか。

 鍵穴にはたった一つの鍵が必要で、鍵にはたった一つの鍵穴が必要なのです。台風一過の、良く晴れた青空が恨めしい。そんなに陽気ならば男の涙を全て乾かせばいい。

 男は僕に礼を言い、僕の前から姿を消しました。男と前の男、そして女との、長い長い関係は終わりを告げる。五年ほどの彼らとのつき合いは、実に楽しいものでした。

 ありがとう、そしてさようなら。僕の大事な自転車の鍵。

宿野輪天堂

 自転車屋。扱っている自転車をよーく見て欲しい。パワーアシストバイク、ここを見て大興奮してしまった。ジェットエンジン搭載自転車なんてどうですか?

02.10.03(Thu) ヘンゼルとグレーテル
 ヘンゼルとグレーテルは森の奥深く。ぐうぐうと、お腹がへってしかがたありません。お父さんと継母さんに置いてけぼり。道しるべのパンくずは、森の小鳥に食べられた。うろうろと、道を歩るいていると、白い小鳥がやって来て、二人を導きどこかへ連れて行くのです。目の前にあらわれたのはお菓子のお家、お腹ぺこぺこヘンゼルとグレーテル、夢中でお家を食べました。

 童話って面白いですよね。ヘンゼルとグレーテルを始め、親指姫、シンデレラ、かぐや姫、したきりすずめなど、東洋西洋を問わず世界中で愛されています。子どもだけのものにするもったいない、そう思わせる傑作もありますから。
 シンデレラやアリババなどは、ディズニー映画にもなりました。シンデレラは子どものころ親に連れられ見た覚えがあるのですけれど、思えばそれが一番始めに見た映画だったのかもしれません。すっかり魅力に引き込まれ、映画好きになりました。

 グリム童話は残酷です。本にもなったのでご存の方も多いのでは。ここには大人の書いたリアルな現実があります。子ども向けの形を取っていますけれど、あまりに悲惨で陰湿な現実が書かれている。世に出ている子ども向けのものは、そういう部分がカットされているので、読み直して大人向けのものと比較するのもいいかもしれません。
 
 白い小鳥のような女性に導かれ、僕はある料理屋に来たところ。目の前にあらわれたのは瀟洒なレストラン。ある雑誌に載っていたそうです。出てきた料理はあまりにひどく、とてもじゃないけれど食べられません。
 沈黙にとらわれた苦しい時間が過ぎました。魔女のような料理人は釜の中にはいって死んでしまえ!

 僕と彼女は飢えていたため思想が少々過激になり、罵詈雑言を吐くのです。さぁ、お家へ帰ろう。僕らは白いかものような電車に乗って家路につくのでした。

 童話とは案外こういうところから生まれるのかもしれません。そこにはリアルな現実がありましたとさ。

ヘンゼルとグレーテル

いずみ書房、オンラインブック、せかい童話図書館より

 人は飢えていると発想が過激になっていけない。三大欲、五大欲を阻害された時の怒りは大きい。しかしあんな料理でお金を取るというのが信じられない、僕が作った方がまだマシだ。怒り未だ治まらず。

02.10.04(Fri) ぬかに釘
 一週間の疲れが蓄積され、行き場のなくなったストレスをどうにかして発散させたくなる週末。いろいろな方法で発散させると思うのですけれど、アルコールを用いる人も少なくない。かく言う僕も、時にはビールなんぞをちびちびと飲み、心身共にリフレッシュさせたくなるのです。

 ビールにはおつまみがよく似合う。鳥の唐揚げ、フライドポテト、枝豆、乾物とちょっと挙げただけでも実に豊かな種類があります。外で飲むときには枝豆やししゃもなどをつまみに飲むことが多い僕ですけれど、家では香の物、ぬか漬けで食べるのが好き。口にちょっと頬張り、ぽりぽりと香ばしい音を立てつつ食べる。ここに無上の喜びを見出すのです。

 ぬか漬けは大変おいしい。それは何故かと問いますのなら、ぬか床でじっくりとつけ込まれているからと答えましょう。手間暇かかった我が家のぬか床。暗所に置いて、手でぬかをかき回し、日々面倒見ていますから不味いはずがない。
 どこかでぬかにはヨーグルトが良いと聞いては実行し、ビールが良いと聞けばこれもまた実行。とにかくぬか床には精魂こめているのです。

 さて、テーブルの上にはぬか漬けが置いてあります。色よし艶よし味よし、非のつけようのない完璧なるぬか漬け。胡瓜に蕪。あとはビールを待つばかり。朝出かける前に冷蔵庫へ入れて置いたビール、冷えたビールが今や遅しと僕を待つ。胸の鼓動は高まり、口に入れた瞬間の爽快感と喉ごしを想像しながら、冷蔵庫の扉を開ける。
 さあ、入れてあった辺り、僕のビールが待ちかまえているだろう場所に視点を移す。しかし無い。冷えたビールが無い。全くない。野菜室も冷凍庫も見るけれどやっぱり無い。どういうことでしょう。よもやビールが一人歩きするはずもない。こういうときは冷蔵庫の主、母親に聞くのが一番はやい。

「母さん。僕のビール知らない?飲もうと思って朝に入たんだけれど」

「あぁ、ビールね。どうせ飲まないだろうと思って、ぬか床に入れちゃった」

 ビールにはおつまみがよく似合う。香の物は大好きで、家のぬか漬けは大変おいしい。ぬか漬けを漬けるのはぬか床、それを美味しくするのはビール。オーケー、わかっている。わかっているつもり。でも釈然としないのは何故。

 もうこれで何度目か。ぬかに釘ならぬ、ぬかにビールの我が家。とにかくぬか床には精魂こめているのです。

happy! happy!

ビールと言えばここ。はじめて訪れた時には、あまりに子細に書かれているので、うれしくなってしまった。ビール好きならば行って下さい、そして驚いてください。感化されて世界中のビールを飲みたくなること請け合い。

02.10.05(Sat) 昔のことを聞かせて
「あなたのことを教えてよ。今のことはわかっているわ、何をしているか、どんなことが好きなのかとか。ねぇ、昔のことを聞かせて」

 僕は昔のことを話すのが苦手なのです。別に話せないということじゃない。昔のことなんて何の意味があるんだろう、話したところで過去が変わるわけでもなし。だから、出来る限りそういう話題を避けてきた。

「別にいいじゃないか、昔のことなんて。話したって面白くないよ」

「でも聞きたいの。あなたをもっと知りたいの」

 女の子っていつもこんな感じ、僕の過去を知りたがる。日々を楽しみ、快楽的な生き方、刹那的な生き方さえよしと思っているのに。
 天高くにあり生命を照らす太陽だって地平線の下に沈む。沈んだ太陽に用はない、求めているのは僕らを照らす太陽だけ。僕の人生だって過去はあるけれど、沈んだ部分を見られるのは好きじゃない。沈んだ太陽より月の方が好きさ。

「過去のことを話すのは好きじゃないんだよ。今のことなら何だって話してあげられるんだけれど」

「ふーん。ずいぶん秘密主義なのね。犯罪を犯したとか?何かとんでもない秘密を持っているとか?」

 そんなことあるはずない。清廉潔白な人生を歩んできた、とは言わないけれど、僕なりの価値観を持ち歩んできたのです。ちょっとかちんときました。冗談だってことぐらいわかってる、でもむっときたのです。じゃあ、ちょっとぐらいは話してみようか、僕がどんな人生を歩いてきたのかを。どういう風に感じるかはわからない、だけれど言ってみてもかまわないか。そんな気になったのです。
 
「僕はね、外国で生まれたんだよ。メキシコ。ハーブで治療する、いわば漢方医みたいなことをしていたんだよ」

「なんか信じられないわね。まぁいいわ、続けてよ」

「その仕事はね、科学者的な心を持っていないといけなかったんだ。ちょっと今の僕とはかけ離れているんだけれど。でもそうなんだよ」

 僕だって信じられない、昔はそんなだったなんて。だって今とは違いすぎるから。どうやったて、どうひっくり返ったってそんな仕事をしていただなんて思えないよ。

「いつも新たなハーブの説明を求めてさ。なんか、ハーブやっていると誤解されるんだけれど、でも僕の知識にはみんな敬意をはらっていたみたい」

「変わっているわね、すごく変わってる。私、ちょっと信じられないけれど、あながち嘘じゃないかもって。だって、あなた真剣だから」

 そうだろうね。今までこんなこと誰にも話さなかったし、話そうとは思わなかった。これはほんの一部なんだよ。事実は小説より奇なりって言うじゃないか。でも、もっとすごい事実がある。驚かないで欲しい。僕にこんな話をさせたのは、君なんだから。

「それはいつでも、どこでも、どんな時にでも僕の回りにあるんだ。ハーブの薬効を知り、それを他の人々にわからせる。それってマジシャンみたいでしょ」

「そうね。マジシャンみたいね。漢方とかハーブとか東洋医学って、ちょっとわからないものね。でも、あんまり驚かなかったわ」

「いや。これが話したかったことじゃないんだよ。言いたかったことは別のこと。ねぇ、僕が昔は女だったって言ったらどうする?」

「え、それって冗談でしょ?あなたどこから見たって男じゃない」

「それがマジックだって言うんだよ」

 あぁ、やっぱり信じてもらえなかった。僕だってやっぱり信じられないし。

 天高くにあり生命を照らす太陽だって地平線の下に沈む。沈んだ太陽より月の方が好きさ。だけれど忘れていないかい、沈んだ太陽はまた昇り、僕の現在と、そしてこれからの未来がある。

「ねぇ、うそでしょ。そんなの、私、信じないわ。信じられるわけないじゃない!」

 僕だって信じたくはない。こんなことを告げられた気持ち、っていうのはこんなものじゃないのかな。
 そう、これはお告げ。断片的な物語、古いお話、僕は千五十年のメキシコで、女として、ハーバリストとして生まれたらしい。そういう前世のお話。

 僕は昔のことを話すのが苦手なのです。別に話せないということじゃない。昔のことなんて何の意味があるんだろう、話したところで過去が変わるわけでもなし。

Who were you in your last life?

 英語。前世であなたは何者だったのか、とでも訳せばいいのかな。友人にそそのかされてやってみた。僕の結果は上の通り。しかしこういうのって、やったからってどうなるものではない。でも、僕はメキシコ人で女だったらしい

02.10.06(Sun) 浪人と蟷螂
士農工商の身分制度が崩れつつある江戸。各藩も役のついた武士を食わすのがやっと、浪人を囲う余裕などなくなりつつある。食にあぶれた浪人は道場を開き、あるいは藩士顧問や高利貸しの用心棒として剣客商売をするものも。

 ここに一人の男がある、貧乏長屋に住む浪人。行く行く剣で身を立てたいとは思うものもこんなご時世のためか、はたまた不器用な性格のためか、剣で生業が立つのはいつの日か。貧しくても心は錦、武士の子として生まれたからには剣の道で生きたいものだ、そう己に言い聞かせ今日も内職の傘張りに精を出す。

 昨夜も行燈(あんどん)の灯で夜遅くまで傘張りをしていた。こんなことは武士のやるべき事ではない、しかしながら食うためには仕方がない。武士が武士として生きるのには何と苦しい世の中か。如何に食うためとは言えど、悪徳高利貸しの手先や治外法権の藩屋敷で博打打ちになっている輩もいる。それに比べれば、こんな境遇でも良いではないか。
 そんな事を考えながら布団に入る。いつもすぐに寝てしまう男、今夜もそうであった。夢を見た、太平の世に出て武者修行をし、一国一城の主として町に剣道場を構える夢を。空中に拳を振り上げながら起きた、それは相手と試合している夢。相手の剣が頭を掠め、その風圧が感ぜられた。

 夢はそこで終わりを告げる。意識がだんだんと覚醒していくと頭に風を感じる。その風が吹き付けてくる方を向くと破れた障子が目に入る。昨日までは破れていなかったのに。

 ふと障子の下を見ると一匹の蟷螂(かまきり)、まさか蟷螂が夢に出たのではあるまい。障子が破れて少々機嫌が悪くなっている。
 おうおう、お前もこんな貧乏長屋に来てかわいそうに。ここは俺が食うのに精一杯、お前さんの食べるものすらありゃせんよ。どうせお前も餓えて死ぬのなら、いっそこの俺の手で殺してやろう。

 磨き抜かれた剣を取り、静かに蟷螂に向かって構える。こんな小動物相手にしか剣を振るえぬとは何とも情けない。蟷螂はこちらの構えを見て殺気を感じたか、両の手にある己が自身の剣をこちらに定め激しく威嚇してくるではないか。
 そうか、お前もこんなところで死にたくはないよな。お前にも俺と同じく志がある、お互いに剣の道に生きるもの。そう無益な殺生をするものでもなし。よし、どこか存分に腕を振るえるところにでも連れて行ってやろう。

 蟷螂をひょいと手に乗せ、男はそのまま外に向かって歩き始めた。ほら、ここなら良かろう。その場所とは、垂れ下がった稲穂の付いた収穫が間近にせまった田んぼ。風が吹くと稲穂が一斉に揺れてざわざわ音を出す。その音を聞いて食欲が出たのか、腹がぐぅと鳴る。貧乏暮らしでろくなものを食べていないのだから無理もない。
 手の中にいた蟷螂を稲穂の上に乗せると、名残惜しそうにこちらを振り返り、剣を天に向け上げた。捲土重来、そんな言葉を男はふいに思い出す。蟷螂だって立派に剣で身を立て生を全うするだろう。そうだな、俺もまだまだこれから。

 金色の稲穂を前にして男は思う。貧しくても心は錦、武士の子として生まれたからには剣の道で生きたいものだ。

 さてこれから家に帰って破れた障子を直さねば。これから何をするにせよ先ずはそれからだ。風が男の頬を撫でる、米の匂いが交じった良い香り。また男の腹がぐぅと鳴る。

Lion Rafale

セガ、バーチャファイター4(PS2)より

 リオンは蟷螂拳の使い手。えっーとですね、昨晩三時頃に目が覚めベッドから降りたら立ちくらみ、空中を手がさまよい着地した先は障子。手の形を見たら蟷螂のよう。破れた障子から夜空がよく見える、早く障子を直さねば

02.10.07(Mon) テクノロジーを目の当たりにして
 電話加入者の公示が新聞紙面に掲示された明治二十三年、当時電話を知る人はごく一部の知識人しかおりませんでした。さらに電話に加入したのはその中でも金持ちのみ。予定されていた定員四百名(東京三百人、横浜百人)はなかなか集まらなかったそう。
 新しいテクノロジーがもたらされた時の反応というのはいつの世も同じ、始めは信用がなく、おっかなびっくり使うという感じでしょうか。明治の人々の反応は、小僧さんに言付けを頼んだ方が余程早い、ですとか、電話線を伝わってコレラやチフスが伝染するから恐ろしいなど。現代人から見れば全く馬鹿みたいだとは思いますけれど、昔の人々の反応はさもありなん、なんて僕は思うのです。

 携帯電話にしてもそう。バブルの始まったあたりから出てきた携帯電話。始めは黒い弁当箱のような大きさで、戦場の通信兵かと思しき出で立ち。青年実業家、なんて種類の人々が格好を付けるために持っていたような。これも他の人から見れば相当に馬鹿みたい。何を好きこのんでそんな重い格好をしなければいけないんだろう、そう思った人も多いのではないでしょうか。
 最近の携帯電話は小型化が進み、道行く人全てが持っているのではないか、そんな気すらします。メール、動画、ゲーム、それにナビゲーション。おっかなびっくり使っていた携帯電話、思えば遠くに来たもんだ。

 つい先ほどまで友人に頼まれて、ADSL接続の設定方法をレクチャーしてきました。電話線を伝わって情報が伝播する。明治の人には想像も出来ないことでしょう。テキストだけでなく、音楽、動画だってあっと言う間に表示されるのはご存じですね。ですけれど、友人にはたいそうな驚きだったよう。

 新しいテクノロジーがもたらされた時の反応というのはいつの世も同じ、始めは信用がなく、おっかなびっくり使うという感じでしょうか。
 明治の人々は電話線を伝わってコレラやチフスなどの病原菌が伝わって病に犯されると思っていました。

 現代の電話線はコレラやチフスなどの病原体は伝わりませんけれど、コンピュータウィルスは伝わります。そんなものの対策をしなくてはならないなんて全く馬鹿みたいだとは思いますけれど、ファイヤーウォールやアンチウィルスでしっかりとした対策が必要になってくる。

 それを友人に伝えたときの反応、さもありなん、なんて僕は思うのです。

電信・電話の歴史年表

 ベルによって電話が作られてから百年以上経過している。周りを見ると誰もが携帯を持ち便利にはなったけれど、反面ずいぶんと騒がしくなったと思う。仕事の電話はうるさく、遊びの電話は耳に心地良い。そういう矛盾も否定はしない

02.10.08(Tue) 予言者の言葉
 ピアノとドラムの激しい掛け合い、演奏者の熱がこちらに移るかのような演奏。三年ぶりでその曲に耳を傾けると、馴染んだ旋律がすっと頭に浮かぶように、あの日の出来事が鮮明に蘇るのです。

 三年前の夏の日。不況の深刻さのせいか、夏だというのにどこかに陽気さを置き忘れ、世を冷たくしていました。日本という国がどこに行くのか、どこに着地するのか、殆どの人が見えていなかったでしょう。
 そんな世紀末、あの偉大なペテン師の流言を信じたくなる人もいたのです。ノストラダムス、誰でも知っているであろうあの大ほら。

「一九九九年七月、空から恐怖の大王が来るだろう、アンゴルモワの大王を蘇らせるため、幸運にも統治する火星の前後に」

 僕と彼女はソファーにくつろぎながら、世紀末の世の中について話します。これからどうなるんだろうか、なんてちょっと深刻ぶって。もちろんノストラダムスについても盛んに議論されていた年ですから、僕らも話していました。
 でも正直なところそんな与太話を信じていなかったのです、僕は。しかし彼女は違う。大まじめで終末は来るんだ、と力説してくるのにはいささか閉口してしまう。彼女を傷つけたくなかった僕は、そのやかましい口を僕の口で塞ぎ、しゃべれなくしたのです。

 彼女の口を塞いだときラジオから流れてきた曲、マッコイ=タイナーのFly with the wind、その曲でした。僕と彼女は我を忘れ、手と手、口と口を絡める。まるでピアノとドラムの激しい掛け合いように。よく馴染んだ旋律のように、彼女の体と戯れる。その日は割と涼しく、窓から爽やかな風がそよいでいました。Fly with the wind、僕らは風に乗ってどこかに飛んでいく。

 それから僕らは次第に会わなくなりました。お互いの考え方の違い、そういうのが他人に説明しやすい答えだと思います。他にもいろいろあったのですけれど、要約すると意見の相違ということ。ノストラダムスの予言が決定打だったのかもしれません。
 ペテン師の予言は外れました。恐怖の大王など来ずに、アンゴルモアも何だかわからず仕舞い。しかし、僕らにとって彼の予言は的中、僕らは七月のある日に別れました。

 ピアノとドラムの激しい掛け合い、演奏者の熱がこちらに移るかのような演奏。インターネットラジオのジャズ局から流れるマッコイ=タイナーのFly with the wind。三年ぶりでその曲に耳を傾けると、馴染んだ旋律がすっと頭に浮かぶように、彼女との思い出が鮮明に蘇るのです。

 彼女は今年の七月に結婚したそう。Fly with the wind、風に乗って僕らは別々の方向に飛んでしまったんだね。

Fly with the wind

アマゾンより

 マッコイ=タイナーの名曲。これを始めて聞いたのはいつだったかよく覚えていない。でもこの曲に対する思い出は日記以外にもいろいろあって、感傷的になってしまう。強く購入をお薦めします、良い曲ですから騙されたと思って聞いて下さい。

02.10.09(Wed) 化けの皮
 コインに裏表があるように、人にも表と裏の顔がある。陰と陽、月と太陽、静と動。外面が良い人だって内面はどうなっているのかわらない。衣服によって隠された肌のように、人の心にある何かを見てみたい、そんな時だってある。

 彼は外面が大変良い。男の僕から見ても嫉妬してしまうような、そんな格好良さ。彼を知ったのはつい先日のこと。女形のような線を持つも、彼は、彼と呼ぶぐらいなのだから男なのです。ちょっと前に現れたと思ったらすぐにちやほやされる。軽く受け流している様子をみると、そういうのに慣れている、いや、慣れきっているのかもしれません。なんだか自分の中から裏の顔、カラスのように真っ黒な憎悪の心がふつふつとわき上がってくるのを感じます。
 そんな外面の良い彼の仮面を僕はひっぺがしてやりたい。猛々しい男なのだということを、どうにか知らしめてやろう。そう思って筆を取る次第。こんな僕を醜いとお思いになるかもしれません。江戸川乱歩に出てくるような人間に見えるかも知れません。ですけれど、これが僕の本性なのですから。

 外見を取り上げて攻撃するなんて、品性下劣だということは重々承知しています。罵られても仕方がありません、僕の中の醜い嫉妬心がそうさせるのです。限られた条件の下、僕に知り得る情報というのは彼の姿ぐらいしかないのですよ。

 人の心というのは体に如実に表れる。これはフロイトを知っているものなら常識なのかもしれません。右の顔はパブリックの顔、左の顔はプライベートの顔。情緒や感情を司る右脳は左の顔に、論理を司る左脳は右の顔に出る。鏡を顔の中心に置いて、左右の顔を見比べてみるとわかるでしょう。鏡に映し出された顔から目を背けてはなりません、それがあなたの本性なのかもしれないのですから。
 試しに僕自身の顔を鏡に映すと、左右で別の人物かと思われるほどの歪みよう。人様に見せられるような代物ではありません。どちらがどちらとは言わないでおきましょう。そのどちらかの顔が、僕本来の禍々しい本性、歪んだ僕の性格そのものなのです。
 
 シャガールの絵にも似たようなものがある。画家は、絵を描くのに人を裸にするだけでなく、心まで裸にしてしまう。顔の二つある花嫁、一九二七年の作。右を向く花嫁はにっこりと微笑み、左を向く花嫁はうなだれ青ざめたような顔。ほら、人間の二面性が良く表れているじゃないですか。
 これから結婚式に臨む花嫁だってそう。右の顔、パブリックの顔が喜んでいる反面、家庭に入って遊べなくなる毎日の生活を思うと、左の顔、つまりプライベートの顔が出るのです。シャガールは生涯この絵を愛しました。汚い人間の本質を愛していたのかもしれません。

 僕に言わせりゃ人間なんて所詮はそんなもの。コインに裏表があるように、人にも表と裏の顔がある。陰と陽、月と太陽、静と動。それは彼にだってあるに違いない。だから僕は彼が憎い。その化けの皮をひっぺがし、公衆の面前にその姿をさらしてやりたいと思う。

  外見を取り上げて攻撃するなんて、実に品性下劣だということは重々承知しています。ですけれど、どうかその姿を見て、あなた自身の姿で判断して頂きたく、僕は彼の写真をここに用意したのです。喉元まで言おう言おうとしているのですけれど、僕の右の顔、理論を司る左脳が、パブリックの顔がそうさせてくれそうもありません。彼の本性を暴いてやる、など言っておきながら逃げるなんて実に卑怯だとは思います、しかしこれも僕の一つの顔なんだと思ってもかまいません。

 前置きが長くなりました。その調った顔が歪む姿が良くとらえられていますから。どうぞあなた自身で判断してください。

 では「彼の顔」を見てください。きっと驚かれると思います。

顔の二つある花嫁

マルク・シャガール展、作品紹介より

 この絵を実際に見たことはないのだけれど、シャガールそのものは好きで見に行くことも。二面性っていうのは誰でも持っているけれど、その程度は人によって大きく異なる。どうなんでしょうね、僕は?

02.10.10(Thu) 自白の行方
 罪を犯したものは必ず罰を受けなければならない。裁判にかけられ法の下に裁かれる。それが現代社会の掟。しかし、それから逃れる方法がたった一つだけあるのです。時効。成立の時まで犯罪者は己の身を世から隠し、こそこそと動き回るごきぶりのように生活しなくてはならないでしょう。ごきぶりが人に忌み嫌われるように、世間が殺虫剤のような目で犯罪者を見つめ、暗所からあぶり出す。

 一通の手紙が僕の元に届きます。世間から遠ざかった生活を送っていたので懐かしい、と思う反面、危険を知らせるランプが頭の中に明滅する。駄目だ、これを開けると大変なことになるぞ。きっと取り返しのつかないことになる。だけれども、人恋しくなっていたのでしょう、その欲望に打ち負け、ついに封を解いてしまうのです。

「気に入りました」

 ただそう書かれた手紙。ラブレターなんてものじゃないことぐらいわかっている。これは脅迫文だ、そう直感しました。時効成立間際だというのに、畜生。何だって言うんだ、この僕を脅そうって言うのか。じとりとした汗が額からしみ出てくる。

 追いつめられた僕には、こういう風にしか解釈出来ない。あなたの犯した罪を気に入った。ということは、送信主は僕の事を良く知っている人間で、僕の正体を世にばらし、報いを下そうというのか。

 とことん追いつめられました。今まで長いこと散々逃げ回り、身を隠し、勘ぐられそうになるとシラを切り通してきたのに。もうお終いだ、何もかもお終いだ。
 こうなったらあぶり出されるよりも、自ら公の場に出て、潔い最後を迎えようではないか。その方が罪も軽くなる。

 罪を犯したものは必ず罰を受けなければならない。裁判にかけられ法の下に裁かれる。それが現代社会の掟。時効成立前の不手際だった、一通の手紙が僕の元に届く。ゴキブリのような末路を辿るなら、いっそ舞台のように華々しく幕を閉じようではないか。

 告白します。僕はこれまで世に対し毒を垂れ流し続けてきました。たばこ、酒、それに麻薬のような快楽を伴う毒薬を。一度犯されると立ち直れないかもしれない危険な毒、文章という名の毒を。人々のもがき苦しみ腹を抱え身悶える姿を想像し悦に入っていたのです。
 さて、僕からの自白はこれこのとうりでございます。あとは裁判を下されるのを待つばかり。陪審員は読者のみなさまです。罪を認めます、悔い改めますので、どうか無罪にして下さい。

 判決が下されるのはいつの日でしょうか、長い裁判が予想されます。

Jodie Foster Gallery

英語。告発の行方、という映画を見たときにはショックを受けた。二十歳前に見た気がする。好きだったジョディー=フォスターが出ているから、という安易な理由で見たんだけれど、社会問題を取り扱った映画というのは理由なくして見るものじゃない。性犯罪なんて決してあってはならない。映画の中の出来事だとしても目を覆いたくなりました。

02.10.11(Fri) 試験会場にて
 彼はある試験会場に来ていました。これまでの努力が今日のこの試験で決まってしまうかと思うと否応なしに緊張してしまう。無理もないことです。長い間必死に頑張ってきたものが、たった三分の試験で決められてしまうなんて。

 緊張のあまり震えやしないだろうか、興奮して熱くなりはしないだろうか。そう考えると、ますます緊張して堅くなるような気がします。リラックス、なんでもゆとりを持たなくては。いつも通りにやればいい。

 ドアが開き試験官が入ってきます。手にはこれまでも試験を見てきたであろう時計。ぴしゃりと一部の隙間もなく閉じられたドア、これから試験が始まるという表れ。

「これから三分の試験を行う、みなさん用意はよろしいでしょうか。それでは始めて下さい」

 時計の針は動き始めました。

 カチカチカチ。やっぱり彼は緊張しています。何だか体中が固まってしまっているみたい。リラックスリラックス。そうです、その調子。だんだんと暖まってきたようです。でも頑張って、時間はとても短いのだから。
 周りを見渡すと、いろいろな風貌の受験生。茶色いセーター、黄色いシャツ、痩せている緑のメガネ、赤と白のダッフルコート。どの顔も始めは緊張していたようですけれど、彼と同じようにだんだん緊張が取れ、体が暖まってきたみたい。

 そうこうしている間に時間が迫ってきました。試験官が時計をちらちらと見ています。もう十秒もないでしょう。五、四、三、二、一。

「それでは止めてください。みなさんお疲れさまでした。次の準備がありますので、速やかにこの教室から退出してください」

 締められていたドアは再び開けられる。試験は終わったのです。

 彼の顔は興奮のため上気していました。思いの丈をこの短い時間に全て出し切る、これはものすごい力がいるでしょう。他の面々も彼と同じく、興奮しているみたい。試験というのは斯くも過酷なものなのです。これで全てが決まってしまうのですから。

 試験官に言われたように、みんな次々とドアから外へ出ていきます。茶色いセーター、黄色いシャツ、痩せている緑のメガネ、赤と白のダッフルコート。どの顔も満足げな表情。やってやたぞ、と言いたげな表情です。
 埋め尽くされた会場から一人、また一人とドアの外に消えていく。だれもこんな所に長居したくないのでしょう、次の準備もあることですし。

 試験者全て退出し終わりました。教室の中に残るは彼一人のみ。みんな試験を終えて、次々と席を立ちドアから退出していったのです。

 会場の熱気に当てられたためか、ぼーっとしてしまう。たるんでるな、いけないいけない。外の空気でも吸って気持ちを切り替えるとするか。そう思い彼はドア向かい一歩外に踏み出す。
 すると突然意識が途切れた、どうなっているのかわからない。疲れて意識が飛んでしまったのかもしれません。彼という存在自体が消失してしまったかのよう、無が訪れるのです。

 ちょうどその時。僕はカップラーメンをすすっていました。お湯を入れて三分経ち、蓋を開け、次々に麺を口に入れるのです。ゆっくりと食べていたせいか、最後の一麺はちょっと伸びてたるんでいました。

ゴチになります!3

ぐるナイより

 今日のゴチバトル、設定金額五万五千円、自腹金額約四十万円ですよ。そんなのをテレビで見ながらカップラーメン百円の日記を書く虚しさよ。四千回食べられるっていうんじゃい!あぁ虚しい。

02.10.12(Sat) 親方様と猿
 昨晩夢を見ました。戦国時代の武将、織田信長と豊臣秀吉の夢を。この二人については何の説明も必要ないでしょう。それほど日本では有名な武将だし、二人にまつわるエピソードも事欠きません。僕が見た夢も、ある有名な話に基づくものでした。

 ある寒い日のことでした。信長に使える秀吉は主君のためを思い、わらじを胸に抱え、冷えないようにと温めたそうな。足をわらじに履いたその時、信長は秀吉を睨んで一喝。

「おい猿よ。お主、主君のわらじを己が尻の下に敷くとは何事ぞ」

「め、めっそうもござりませぬ。如何に信長様と言えどこう寒くては。主のためを思い、この猿めが胸で温めておいたのでござりまする。どうかこの胸についたわらじの跡を見てくださりませ」

 そう言うと、着物をがばっと開いて見せるのです。胸には真っ黒な土の跡。信長はこの家来の行いをうれしく思い、側に置いて自分に仕えさせました。それからの秀吉の活躍はご存じの通り。信長亡き後、主君の意志を受け継ぎ天下統一を成し遂げるのです。

 ここにもう一つのエピソード。歴史の闇に葬られたもう一つ挿話があるのです。

 秀吉はわらじを温めて気に入られたことにすっかり満足しました。猿、なんて呼ばれるぐらいですから、おだてられるとすぐに調子に乗るのです。ただし、そこは後に天下統一を成し遂げる男、多少の機転はきかせて計画を練る。

 ある寒い日のことでした。信長に使える秀吉は主君のためを思い、冷えないようにとある計画を実行に移したそうな。それに感づいた時、信長は秀吉を睨んで一喝。

「おい猿よ。お主、主君の布団で寝るとは何事ぞ」

「め、めっそうもござりませぬ。如何に信長様と言えどこう寒くては。主のためを思い、この猿めが布団に入り温めておいたのでござりまする。どうです、温いいでしょう」

 秀吉、なんだか得意げです。前にわらじであれほど褒められたのだから、今度はもっと褒められる。真摯な態度で信長公に話すも心は躍る。

「こ、この猿が。人の布団で寝ていただと。この大うつけ!主君を守るべき側近が惰眠を貪って何とする!」

 てっきり褒められると思っていたのに何たること。心臓が縮み上がり寿命が縮まるような、そんな気すらしました。これは何としても名誉挽回をせねば。アホの猿扱いで一生を終えてしまう。
 この事件以降、秀吉はめざましい活躍をするのはご存じの通り。信長亡き後、主君の意志を受け継ぎ天下統一を成し遂げるのです。歴史の闇に葬られたもう一つの挿話、これがなかったら太閤と呼ばれず、一生猿で終わったことでしょう。

 これが昨晩見た夢。戦国時代の武将、織田信長と豊臣秀吉の夢を。この二人については何の説明も必要ないでしょう。それほど日本では有名な武将だし、二人にまつわるエピソードにも事欠きません。僕が見た夢も、ある有名な話に基づくものでした。歴史の恥部、闇に葬りたい過去。そんな秀吉の話です。

 昨晩、タオルケットではさすがに寒かったので布団を引っ張り出しました。それがこの夢の出所。今まで寒かったのが嘘みたいで、布団に入った瞬間から人肌のような暖かさ。秀吉もきっとこういう思いを信長にしてもらいたかったのでしょう。

信長の野望 Online

GAME CITY(KOEI)より

 夢の話なんですけれど、日記とは内容の異なるものを見たのです。だけれどあまりに過激でメノモソ向けではなかったので脚色しました。卑猥な話、とだけ言っておきましょう。

02.10.13(Sun) 奇妙な見せ物
 今でこそ道ばたで大道芸を見ることはないけれど、明治ぐらいまでは人通りの多い路地で大道芸を見ることが出来たのです。政府の意向によって街路取締規制が作られ、町から街頭での見世物興行が姿を消してしまいました。

 人魚、象男、河童、火を飲む女など、それはそれは胡散臭い見せ物も。もっとも信じて見ている人などおらず、嘘を楽しむ、といった趣でしょうか。これからお話しする大道芸もそんな胡散臭いものでした。

 ざわざわと揺らめく人の群れ。遠くからこっそりと見ていたものの、好奇心が頭を出し、何であろうかと覗き込む。

「さぁ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。これから世にも奇妙なショーをみなさまにお目にかけましょう」

 狭い舞台の上には二人の男。一人は山高帽に燕尾服を着た講談師風、もう一人は恰幅(かっぷく)の良い二メートルはあろうかという大男。

「ご覧下さいこの大男。身の丈二メートルもあるこれが、今から魚の干物のように縮み、またあっと言う間に元に戻るのでございます」

 本当かよ、嘘ばかりつきやがって。そんな野次がどこからともなく聞こえてきます。木乃伊のような即神仏じゃあるまいし、そんなことがあるわけない。あんな大男がどうやって干物になるというのか。やっぱり見せ物は嘘ばかり、そう思いますよね誰だって。

「いやいや嘘じゃございません、みなさんお疑いのようですな。論より証拠、早速ご覧に入れましょう」

 そう言うと、大男の口にぐいと管を突っ込み、なにやら怪しげな機械を操作しようとする。

「これは南蛮渡来の吸引機械にございます。この男の口に通された管より、瞬時に空気を抜くのでございます。さぁどなた様も目を見開いてよくご覧あれ」

 機械に手を触れたその時。ギュイーンという音がしたと思ったら、見る見るうちに男の体がしぼんでゆくではありませんか。地獄の餓鬼を連想させるような、骨と皮が張り付いたその姿。目をつぶりたい、こんな恐ろしいものを見たくはない、という反面、むくむくと好奇心が起きだし目を逸らすまいとするのです。

「ほらこの通り。この吸引機械によってあの巨漢、ギリシヤ神話に出てくるヘラクレスのような立派な体躯を持つ男でも、木乃伊のようになるのでございます」

 なるほど、口上に嘘偽りはありませんでした。しかしながら、哀れにも空気を抜かれた干物男を一体どうするつもりでしょう。このままではかわいそう。またもや野次が飛び始めます。おい、何とかしてやれよ。このままだと死んじまうかも知れねえぞ。

「ご安心くださいみなさま方。これより空気の抜けました体を元通りにいたします。その方法は至極簡単。この男の口に付いている管を抜くだけでございます」

 えい、というかけ声と共に男の口から管を抜き取る山高帽。機械によって空気が抜かれたのと逆で、干物のようなぺしゃんこの体にどんどん空気が注入されていくではありませんか。
 何秒も数えたということではありません、あっと言う間に元通りの大男。恐るべきは山高帽の燕尾服か、それとも南蛮渡来の吸引機械か。いずれにしても拍手喝采、ものすごい歓声です。

「みなさまありがとうございます。つきましてはこの大男と吸引機械への褒美と致しまして、幾ばくかのお金を頂きとうございます」

 そういうと燕尾服は山高帽を取り、そこにお金を投げ込んでくれと言うようなジェスチュア。道には黒山の人だかり、山高帽の中には山のようなお金が投げ込まれたそうな。

 今でこそ道ばたで大道芸を見ることはないけれど、明治ぐらいまでは人通りの多い路地で大道芸を見ることが出来たのです。お話ししました大道芸、果たして真実か否か。街路取締規制によって町から街頭での見世物興行が姿を消してしまい、確かめる術はないのですから。

 さて。これは何年も後のお話なのですけれど、その時の南蛮渡来の機械による空気吸引の見せ物が口頭伝承で今にも脈々と受け継がれています。近年それが形を変えて製品化されたのをご存じでしょうか。
 ビニールパックに掃除機の管を入れ、布団を圧縮するものです。当時の人が驚いたように、現代でも大きな驚きで迎えられました。この僕も今日使って驚いた次第。山高帽に多くのお金が入れられたのと同じく、開発者は製品化により大きな財を築いたのでしょう。

 お話ししました明治から平成の世に伝わる大道芸の物語、果たして真実か否か。

見せ物小屋の世界

喜劇・藏六狂時代、独り言より

 見せ物小屋、というのはある種の悲しみを持っている。エレファントマンに見られるような事が平気で行われるのだから。それはそうと、圧縮袋から出した布団が元の大きさに戻らなくて困る。

02.10.14(Mon) 空想科学小説
 技術革新の恩恵を受ける僕たち。日進月歩で新しい技術が製品化され、生活をより快適なものにしてくれる。
 ジュール=ヴェルヌの生きた時代。ロケットも飛行船も存在していない、という状態から月世界旅行や八十日間世界一周をはじめ、様々な未来を予見させるような作品を発表していきます。かの有名な海底二万マイルも彼の空想から生み出されたものでした。

 現代においての空想科学小説、というと宇宙をテーマにしたものも。例えばスターウォーズやスタートレックなど。
 スターウォーズでは、ジェダイの騎士の精神エネルギー、フォースを武器にするライトサーベル。スタートレックでは、宇宙船と外界とを結ぶ転送装置。どちらも現代科学では出来そうもありませんけれど、何れ出来るのかも知れません。

 実際にこのような技術は日々研究されていて、近い将来に製品化されるものも出てくるのでは。例えば、スタートレックからこんな場面。

「こちら機関室よりライカー、艦長応答願います」

「ブリッヂよりピカード」

 宇宙船艦内では電話などを用いず、胸に付けたバッジを押し会話をする。はい、ここです。ここですよ。
 こんな小さなバッジで通信できてしまうSF世界。重たい黒電話からプッシュホンになり、携帯電話、さらに空想科学になると牛乳瓶の蓋程度の大きさで通話出来ちゃうんですよ。なんかすごくないですか?これ、僕がトレッキーだから一人で興奮しているとかじゃないですよね。ね?

 もうこの技術ってば完成目前なんですよ。スタートレックの技術があと数年でお手元にですよ。空想科学小説の世界ですよ。SFですよ。やっぱりすごいですよね。

 これを開発する人もスタートレックを連想したはず。しないはずがない。もしくは、真性トレッキーが作ったはず。そして、開発をめちゃくちゃ急いでいる違いない。だってスタートレックですよ。未来の技術ですよ。興奮しますよね。
 開発段階のバッジを胸に付けちゃって、いつも開発者どうして遊んじゃうんですよ。

「こちら研究室よりジョンソン、主任応答願います」

「デスクよりスコット」

 二人とも毎度の事ながら大興奮。トレッキーが二人いて、未来の技術が手元にあって、未来のフロンティアを作っているという自負があったら、僕なら身悶えてしまいます。

「うー、これって格好良くない?俺たちエンタープライズの乗組員みたいじゃない?俺ってカーク船長って感じ?それともスポック?かっちょいー!」

 とまぁ、そんな会話をしているに違いない。

 ジュール=ヴェルヌは未来を予見しました。空想から技術開発、そしていつの日にか製品化へ。日進月歩で新しい技術が製品化され、より快適な生活になるのです。
 さぁ、スタートレックの世界ももうすぐ。アメリカ人のスタートレックオタクの、オタクによる、オタクのための技術。それがもうすぐ世界中に広まるでしょう。オタク技術の恩恵を受けたーい。「この記事」を見て一日興奮しっぱなしの僕なのでした。

STARTREK.COM

 英語。オフィシャルサイトを久々に見たら、新しいシリーズになっていて驚愕。ネメシスって言う題からからしてイカす。勘違いされると困るので予め言っておきますけれど、僕はフィギュアとか集めちゃうほどのファンではないです。ただし、ビデオはちゃんと借りてダビングしますけれど。ネクストジェネレーションが一番面白かったなぁ。それがオタクと言うのですか?あいすみません。

02.10.15(Tue) 天高く馬肥ゆる秋
 天高く馬肥ゆる秋。空は青く空気はからっとしてとても気持ちいい。三連休開けの朝、僕は駅までの道をゆっくりと歩いています。さすがに町中で馬を見る機会はないけれど、きっと馬も肥えているのだろうな、なんて思いながら。秋というのは人を爽快にするらしい。

 いつもの時間にいつもの道。決まりきったことなのに、天気が違うとものの見方も変わってくるのです。ほら、公孫樹(いちょう)の木にぶら下がっている銀杏はもう落ちそう、きっと美味しいに違いない。とか、書道教室の大樹がだんだん色づきはじめ、そのうち真っ赤になって綺麗だろうな。書道教室で紅葉なんて、何だか雅な気がする。という具合に。

 「よう、今日は元気良さそうだね」と、朝からきちんとした身なりした初老の紳士。毎朝声をかけてきます。別に付き合いがある、ということじゃないんです。毎日同じ時間にその家の前を通る僕に一言二言、そんな気分じゃないのでしょうか。僕はちょっと気恥ずかしくて、そのくせ何だかうれしくて、いつもその紳士の家の前を通るのを楽しみにしているのです。
 彼の言葉は僕の気持ちを的確に掴んでいるみたい。「元気ないね、どうしたの」「顔色悪いよ、ちゃんと寝たかい」「楽しそうじゃない、何か良いことでもあった」なんていう風に、毎日違う言葉で出迎えてくれるのです。無味乾燥な殺伐とした社会で、こういう気遣いってうれしいもの。核家族が多くなり、アパート・マンション暮らしでだんだんと近所付き合いがなくなっているとはいえ、こういう人情ってまだまだ捨てたものじゃない。

 この間気がついたのですけれど、初老の紳士はどうも僕以外の人に言葉をかけている様子がない。今年入社と思しき清々しい出で立ちのお嬢さんがその老人の前を通ったのですけれど、まったく顔をそちらに向けません。僕が見るに、お嬢さんは声をかけられていないのではないのでしょうか。その出来事があってから、僕は彼の行動を注意深く見るようにしていたのですけれど、やはり他人と挨拶を交わす、なんて言うことはなかったように思います。
 特別に気に入られているのでしょうか、僕は。それともただの見間違えなのでしょうか。そんな疑いを持っても仕方がないのですけれど。

 今朝も僕は初老の紳士と挨拶を交わす。三連休開けの朝、疲れも取れて本当に気分が良い。「連休明けでいい顔しているよ」、そんな声が聞こえました。
 あぁ、そうですね。今朝はとっても良い気分。でも、あなたは悠々自適で良いじゃないですか、そう言おうかと思いました。喉元まで出かかったのですけれど、止めました。ちょっと気恥ずかしかったのです。

 その代わりといっては何ですけれど、鞄からアーモンドを一粒取りだして、彼に手渡しました。目を小さな粒に近づけうれしそうな顔をして、僕に向かって言うのです。

「バウ!」

 いつもの時間にいつもの道。初老の紳士、オスのリトリバー犬に僕は気に入られたのでしょう。何らかの食べ物が鞄に入っている時には、彼にあげることにしています。うれしそうにしっぽを振って僕にじゃれつく。お菓子をくれる僕は、彼にとって特別のお気に入りなのでしょう。

 空は青く空気はからっとしてとても気持ちいい。そんな三連休開けの秋の朝。天高く馬肥ゆる秋。僕がお菓子をしょっちゅう与えるから、ということではないのでしょうけれど、リトリバー犬はよく肥え太っています。
 秋というのは人だけでなく犬をも爽快にするらしい。いつもにも増してじゃれる初老の紳士でありました。

LOVE ME? LOVE ONE_CO.

 最近お気に入りのサイト。犬、それに馬、と来ればここを紹介しないわけには。ビーグル犬のツナヨシ君がかわいらしいのです。ハチコさん競馬好きなのです。僕はそんなサイトが大好き。えっとですね、要約すると僕は犬を飼っているが故に犬馬鹿で、類は友を呼ぶというか、同じ穴の狢というか、とにかく好きってことは理由じゃないんですよ。犬好きの人は見るべし

02.10.16(Wed) 爆弾処理班員の憂鬱
 赤いコードに青いコード。このどちらかを切ると爆弾は解除できる。しかし間違えれば命の保証はない。そういう緊張感をもって業務に望んでいるのです。
 爆弾の解体には処理時間が肝要。ぐずぐずしていると、あっというまに制限時間が来てドカン。すぐに解体できるものもあれば、制限時間ギリギリでようやくというものもあります。知力の限りを尽くして作ったものだから、口で言うほど簡単に処理できるものではない。最悪の場合。考えたくもないのですけれど、時間に間に合わずに爆発してしまうということも有り得るのです。

 ここに三個の爆弾がある。二つは解体済み、残りは一つ。解体には時間がかかります。二週間前に持ち込まれ、二つはすんなりと処理できました。何の迷いもなく、手を付けてからさほどの時間もかからずに。
 残りは一つ。ただ一つ。この一つのために二週間悩みに悩み、朝夕問わず考え続け、どう紐解くかを考え続けていたのです。
 時間が足りない。制限時間が刻一刻と近づいてくる。爆弾を持つ手は汗ばみ、緊張のあまり手から滑り落ちそうに。危ない危ない。

 制限時間にはどうやら間に合いそうもない。諦めてどこかで爆発させるか、それも仕方がないこと。年間何回かあるのだけれど、これはあまり褒められたことではないのかも。自分の解体技術の不足を見せているような、爆弾制作者に負けているような気がしてなりません。

 頑張ったけれどもう駄目。これは僕の力の及ぶところではない。今年は解体失敗なんていう不名誉なことはなかったのだけれど、この爆弾が僕に汚点を付けることになりそうです。

 赤と青の複雑に絡み合った螺旋。最悪の時は来た。制限時間はもうすぐ、だけれどこの謎を解けるとは思えません。技術不足、僕は負けたのか。

 図書館で借りた本の期日は明日まで。今日が最後の一日ですけれど、読むのを断念した僕でした。

鈴木爆発

ENIXより

 ちょっと古いゲームだけれど、こういう独創性って面白いと思う。読めない本というのはあるもので、どう頑張っても読めない。今年はじめてぶつかった本。その作者の本は何度か挑戦しているけれど全て駄目なのです。どうしてだろう?

02.10.17(Thu) 当世化粧品事情
 化粧品は何を使っているの?香水は?昼の女の子の会話は未知の世界。当然ながら話題には付いていけず、遠くにきゃあきゃあという声を聞きながら、僕は眠い目を擦りつつ一人本を読むのです。

 話がどうやら一段落したようで、ちょっとした沈黙がありました。何か話題を、というような空気が流れているみたい。
 誰かが海外ドラマの話を振ってきました。最近はどんなものが面白い、こんなものが好きなんだ、なーんて。

 ERは見ていると手に汗握る。はい、ジョージ=クルーニーは格好いいですし、緊急病棟という場面設定や人間臭いドラマも好きですよ。
 実は人間ではなく宇宙人、という突拍子もないロズウェル。始めの数回は見ていましたけれど、途中で飽きて見るのを止めてしまいました。
 ちょっと古いところでは90210、邦題ビバリーヒルズ青春白書。ブランドンがいなくなった時点で僕は興ざめでしたけれど、かなり人気があるようで、登場人物の名前を挙げては盛り上がっています。

 男と女の考え方の違いでしょうか、それとも僕の趣味がずれているのでしょうか。僕のお気に入りの番組は出てきません。あぁ、何だかイライラする。
 本を読もうとしているのだけれど、僕の意識は本になく、海外ドラマの話に気を取られっぱなし。

 誰かが僕に声をかけてきました、TackMさんも海外ドラマ見るんですよねって。渡りに船とはこのこと、会話に参加したくて仕方がなかった僕は喜々とするのです。

「昨日僕は眠れなくて、眠くなるまでの退屈しのぎにテレビをつけたら海外ドラマをやっていたんです。それがコメディーで、すごく面白かったんですよ。マイケルJフォックスが出ていて、ニューヨーク市市庁舎の話なんですけれど」

「あ、それって見たことありますよ。えーっと、タイトル何でしたっけ?」

 ちょっとトロそうな彼女はA子さん、一生懸命記憶を呼び起こそうとしています。何か思い出そうとしている時にこちらで言ってしまうより、自然に出てくるのを待つのが良いかな。焦らずに待ってみよう。

「えーっと、えーっと。ちょっと待ってください、ちゃんと覚えているんですから」

 鷹揚(おうよう)に構えることにしていたのですけれど、ちょっと、ほんのちょっとだけイライラします。こちらも喉まで出かかっているのを押さえていますから。


「あー、わかったー。スピンシティーだ!」

 そう、その通り。ご名答。しかしながら、そんな大声で言わなくても。その声が聞こえたか、スピンシティーに反応した人がここに。B美さんです。

「あっはっは。A子さんどうしてですかー」

 僕とA子さんは顔を見合わせ、何のことやら考えるのです。スピンシティーが違うの?いや、間違えてはいない。二人同時に勘違いしている、なんてことはあり得ないですし。一体なに?どういう了見なのよ?

「そんなスピンだなんて」

 B美さん、何を言っているの。わかりやすく言って欲しいんだけれども。

「だってA子さん、いつも綺麗じゃないですかー」

 スピン?綺麗?あぁ、わかりましたよ。謎が解けました。途中から席を立ち、数分の後に戻ってきた彼女。頭の中はいまだにコスメ。会話が海外ドラマに流れたと分からなかったらしい。

 彼女の頭の中でのA子さんの発言はこうです。すっぴんしてー!いつも化粧バッチリで綺麗なA子さんなのに、化粧を落としてすっぴんで勝負だなんて!

 とまぁ、そういうお話。

 昼の女の子の会話は未知の世界。ちょっとでも席を離れれば、たとえ女の子でも、当然ながら話題には付いていけないのでありました。

すっぴん北京!

アルク、中国語ジャーナルより

 すっぴんで探したら見つかった。すっぴん=中国という発想がなかっただけに面白い。同じアジアだというのに、どうしてこんなに日本と違うのだろうか。

02.10.18(Fri) パスタとポトフ、あるいは常識の非常識
 犬が西向きゃ尾は東、当たり前でわかりきったことを指すことわざ。世の中わかりきったことの何と多いことか。眠れば起きるし、食べれば出る、息を吸えば必ず吐き出すと言った具合に。こんなの書くまでもないことなのです。

 しかしながら、世の中にはわかりきったことであるにもかかわらず、それが通用しない場合だってあるのです。どちらも正しいのに、でも相手の言い分は奇妙に感じる。海外でこういう経験をした人もあるかもしれません。

 海外のトイレのドアを使用後に締めたら怒られた。どうやら日本の開けたら締めるの文化とは違うらしい。
 鈴虫の音色、蛍の光りは美しい。これを英語圏の人に話したら不思議な顔をされた。どうやら彼らはただの雑音、害虫にしか見えないらしい。

 このように、当然のように考えられていることも、実はそうではないことだってあるのです。

 晩ご飯のこと。いつも相手に合わせて料理をする僕と友人なのですけれど、意見がぶつかることもある。どちらかが折れなくてはならない、そんな状況だったのです。

「ねぇ、今晩はポトフが食べたいわ」

「それは困るなぁ。だって、僕はパスタを食べたいのに」

 ポトフ。ジャガイモとキャベツ、それにウィンナーを煮込むドイツ料理。主食系、重量級です。これを食べた後に他のものを食べる余力があるとは思えません。
 パスタ。まぁ、パスタだったら何でも良かったのですけれど、こちらも主食系。これとポトフを一緒に食べるのは不可能でしょう。

 言い争っていても始まりません、お腹はこうしている間にも減っていくのですから。なにか手を打たないと。うーん、どちらかが食べたいのを我慢して折れるか。でも食べ物の恨みは恐ろしいって言うし。
 常識で考えれば主食二つというのは多すぎ、そんなのわかりきっているよなぁ。パスタにジャガイモだもの。ポトフはジャガイモとキャベツ。キャベツとパスタ。待てよ、パスタにキャベツ、アンチョビっていけるよなぁ。

 ひらめいた!ポトフパスタを作れば良いのです。

 材料はポトフとパスタで共用。スパゲッティー、ジャガイモ、キャベツ、チョリソー、ニンニク、唐辛子、調味料。作り方は料理サイトではないので省きますけれど、実に美味しく出来ました。僕も彼女も満足の一品なのです。

 犬が西向きゃ尾は東、当たり前でわかりきったことを指すことわざ。世の中わかりきったことの何と多いことか。
 しかしながら、世の中にはわかりきったことであるにもかかわらず、それが通用しない場合だってあるのです。パスタとポトフ、普通なら組み合わせないのですけれど、そんなのは頭で勝手に考え出された常識の非常識でした。

 食後にことわざ「犬が西向きゃ尾は東」を辞書で調べてみると。そうしたら僕の知っていた“当たり前でわかりきったことの意”以外にも、“当たり前のことをさも事新しげに言う者に対する皮肉”という意もありました。

 料理が口の中で訴えます、常識の非常識を。わかってしまえばポトフパスタも常識にもなりましょう。
 犬が西向きゃ尾は東。もう既に実践している人がいれば、こんなの書くまでもないだろうと言われそう。常識に囚われた僕らへの痛烈なる皮肉なのです。

ことわざわーるど

 ことわざを調べる時にはここを使う。大きくて重い辞書を使うよりも、ネットの辞書を使うことが多くなってきた。広辞苑を手軽に扱おうとは思わないからなぁ、あれで調べるのには気合いが必要。

02.10.19(Sat) 手に宿るは神か悪魔か
 奇妙な感覚が昨日の晩から続いているのです。眠る前にベットで軽く手を動かしてみるのだけれど、何て言ったらよいのでしょう。そう、僕の手が誰か他の人間の手であるかのように、融通が利かないのです。
 少々疲れているのかもしれない。前の晩に軽く手の握力をつける筋トレをしたので、その影響でおかしな感覚がしている。そういう風に考えるのもすごく自然なことだと思ったのです。だからその時にはそんなに注意を払っていなかったのですけれど、朝起きてもおかしな感覚が手に。

 これは一体。指先を見つめ、一本一本指を折り曲げてみます。始めは右手、親指から始まって人差し指、中指、薬指、小指。左手ももちろん同じように。いつも通り出来る。しかし違う、何かが違う、僕の知っている指と決定的に。
 空恐ろしい気がする。手を天に向けぐうとぱぁ、閉じたり開いたりを交互に何度かしてみるのだけれど。この感覚はおかしい。

 僕は知っている。蜥蜴(とかげ)はしっぽを切り落とすと、自然治癒能力によってしっぽが再生し、同じ機能を持つことを。

 いや、まさかそんなことはあるまい。気が付かない間に手首から先が切り落とされたなんて。そんなの漫画か夢の中の出来事でしかない。そう、漫画「寄生獣」のようなことなんて現実にはあり得ない。だったらこの違和感を導説明すれば良いのでしょう。

 僕はその違和感の正体を見極めるべくピアノの前で構える。何千回と弾いたであろう楽譜を取り出し、深い深呼吸をし、指を動かすのです。
 動く。自由に、思うように動く。速いテンポの曲も、難しそうな所も、どうと言うこともないのです。あぁ、僕の思い過ごしか。ただ、ちょっと疲れていただけ。

 楽譜棚からもう一冊取り出します。今弾いた楽譜があまりにぼろぼろになってしまったために、新たに入手した同じ作曲家の同じ曲。
 真新しい本の匂いを感じながら、僕はピアノを弾きはじめるのです。ゆっくりとテンポを一定に保ちながら。気分良く。

 しかし。指が全く動かない。ちょっと動かしてはつっかえ、もつれ、つりそうになるのです。
 おかしい。こんなはずじゃ。高校の時には必要に迫られて何度も練習したし、受験後はこの曲の魅力に取り付かれて分析をしたほど。何千回と弾いてきたはずなのに、こんな馬鹿なことがあってたまるものか。悪魔が僕の手を支配したとでもいうのか。

 奇妙な感覚が昨日の晩から続いているのです、僕の手が誰か他の人間の手であるかのような。

 昨日手に入れた楽譜。ぼろぼろになった古い楽譜代わりの楽譜、同じ作曲家、同じ曲。しかし決定的に違っていることがありました。それは指番号。指の動かし方の違いだけで、これほど差違が出るなんて。

 僕の手には神も悪魔も宿りはしない。だけれども、楽譜には神が宿るよう。今度の楽譜は神か悪魔か、それは僕の腕次第。

寄生獣

sonota moromoro マンガの部屋より

 手に関することを調べると面白い。例えば右がrightという辺り。rightには正しい、正当、という意味もある。それに対しleftには深い意味を持たせていない(不器用という隠語がある)。それはそうと、この寄生獣という漫画。継ぎ足しで作ったプロットがない気がする。はじめに全ての筋を考えた上で話を作ったのかなぁ。

02.10.20(Sun) 呉越同舟
 十月の風が頬に冷たい。空の雲か幾重にも重なり、今にも雨が降ってきそう。川の水位も普段よりも上がっているけれど、船を出せないほどではない。今日は一回こっきりしか船を出せないかもしれぬ。

 船の中では貴賤などありはしない。呉越同舟、たとえ親の敵同士であっても行動をともにしてもらわねば。
 白いおしろいを塗った女、日に焼けた男、それに茶色い羽織を着た侍。身分は違えどみな同じ船に乗った人間、それほど違いがあるものか。

 川の上流で雨が降っているのであろうか、水の流れは思った以上に速い。そのため船は普段よりも揺れている。

「おい船頭。もう少し静かに漕げぬものか」

「へい、お侍様。生憎、川の流れがこう速くてはいけませぬ」

 剛胆そうに見えるお侍様でさえそうなのですから、他の者たちはたまりません。みな肝を冷やし冷や汗たらたら、女など白いおしろいが溶けてきているではありませぬか。

「後生ですから。堪忍して下さいまし」

 どれだけの時間が経ったかわからぬ。川の流れはいよいよ速く、船も真っ直ぐ漕げず、油断すると転覆するやもしれん。しげしげと船体を見て無事を祈る船頭。

 乗船者は船縁にしがみつき恐怖に戦く。あぁ、もう駄目だ、この世の終わりに違いない。

 べちゃっ、という潰れた音。そう、ついに船は転覆してしまった。船底が川面に浮かんでいるのが見え、その周りには投げ出された者の姿。哀れ乗船者たち。

 フィットネスで運動し火照った体を冷やしたくてアイスチョコ最中を買ったのです。それを自転車に乗りながら食べている時のことでした。薄着を着た僕には外の空気は寒く感じられ、すぐにアイスチョコ最中を買ったことをすぐに後悔します。

 手に持ったアイス、体は火照っているのに食べると寒い。そのため二十分ほど食べずに手に持っていたのです。
 砂利道にさしかかった時のことでした。手に持っていたアイスチョコ最中の上半分だけずるっと地面に落ちたのです。手から伝わる熱で溶けたためでしょう、それとも振動のためでしょうか。哀れアイスチョコ最中。

 白いおしろいを塗った女のようなアイス、日に焼けた男はチョコ、それに茶色い羽織は最中侍。みな同じ最中船に乗っていましたけれど、べちゃっという音と共に地面に投げ出され、潰れましたとさ。

 生き残った最中の部分が手の中でいやに虚しく感じた午後、十月の風が頬に冷たい。後生ですから。堪忍して下さい。

MONA-RANGER

森永製菓より

 森永のモナカの歴史など、要flash。そう言えば幼稚園の時にも同じことがあった。お墓の一緒にくっついている幼稚園内で、チョコモナカを友だちと食べていたんです。で、事のいきさつは忘れましたけれど、いつの間にか鬼ごっこ。走り回っているうちにやっぱり溶けて、お墓の上にモナカべちゃって。何と罰当たりな!

02.10.21(Mon) 神から遣わされた天使
 音楽には魔力があり、人を魅了し、人生を変えてしまうほどの力を持つ。かつて音楽は神に捧げられていました。音楽による心の浄化が目的だったのかもしれません。今となっては昔の話、無宗教の僕にはハイそうですかと素直に信じられるものではありませんけれど。
 これからお話するのは神から遣わされた天使によって魔力に取り付かれた男の物語。神に音楽を捧げていたバロック時代ほど古い話ではなく、二十世紀末のことです。

 忘れもしない十八の春、僕はピアソラの音楽に出会いました。学校にある図書館の資料室にあった民俗音楽のLDに入っていた曲。全身に衝撃が走ったのです。ヘッドフォンから流れ出る魔法は、僕を導き、天高く舞上げるかのようでした。不思議なふわふわとした感覚に包まれ、いつまでも浸っていたい、そう思うのと同時に肌がざわつき鳥肌が立ったのです。

 僕は音楽学校に入学したばかりで、毎日のようにピアノにかじり付き、譜面とにらめっこし、曲の断片を書き散らし、食事抜き睡眠抜きで音楽に接することもしばしば。音楽に餓えていたのです。ですから、図書館でピアソラを聞いたのも偶然ではなかったのかもしれません。

 それまでタンゴといえば黒猫のタンゴやコンチネンタルタンゴなど古くさいものばかりで、興味など全くなかったのです。ダンスホールで人を踊らせるための音楽。音楽のための音楽、音楽至上主義者ということではないのですけれど、僕にはそういった鑑賞用途意外の音楽に対する知識と理解が不足していました。

 黒いシックな服に身を包み、重そうなバンドネオンを立ったまま弾く男。僕の目は彼の一挙一動を見逃すまいと画面に吸い寄せられる。体位法的な旋律、蠱惑的なリズム。僕の知っているタンゴとは全く違っています。
 音楽のためのタンゴ。ピアソラ。それからです、僕が彼の音楽を買い漁るようになったのは。

 当時は世間一般にピアソラに対する理解などありませんでした。クラシック界からは「アイツはタンゴだろ」という目で見られ、タンゴ界は「あんなのタンゴじゃない」と言われる日々。そういった状況下でのピアソラ探しは難航する。
 近所のレコード屋ではタンゴのピアソラと頼めば若いのに変なやつだという顔をされ、コンチネンタルタンゴ全集や映画音楽の中のタンゴといった趣味ではないものばかり渡され、僕は憤りを隠せませんでした。

 インターネットも未だ普及しておらず、近所のレコード屋には変人扱いされ、僕の足は自然とHMVやタワーレコードなどの大手に向かう。そこでもワールドミュージックの狭いコーナーに押し込められているピアソラ。それでも僕は満足でした。
 池袋に幾たびにHMVに行き、新しいCDが入荷していないかをチェックする日々が一年ほど続くのです。

 僕がピアソラ探しに熱中していた一九九二年、彼はこの世を去りました。しかし日本でピアソラを知っている人はこの時点で殆どなく、訃報を聞いた僕は一人部屋で彼のCDを聞き、涙する。会ったこともない音楽家の死で涙を流す、なんていうことが僕におこるとは。
 もうピアソラはこの世にいない。一部の人にしか知られず逝ってしまった。彼の求めた自由は、
リベルタンゴはどこに行くのか。この時は知りようもありません。しかし、ピアソラ死して彼の音楽はようやく自由に羽ばたく。

 ギドン=クレーメル。クラシックのバイオリニストである彼がピアソラへのオマージュというCDを発表したところから、ようやく世間が動きました。その後もクラシック界からのアプローチが続きます。ヨーヨーマ。世界的なチェリストもピアソラに熱狂、これでピアソラに対する評価が一段と高まったのです。

 バンドネオンという楽器は、バロック時代に起源があります。オルガンの代用としての楽器ですから、メロディー、和音、対旋律と一台で全て可能。左右に付いた複雑怪奇なボタンの操作で奏でられる音楽。バロックの楽器らしく、ピアソラはフーガなどもたくさん書きました。

 そんなバンドネオンという楽器と、踊るためのタンゴではなく聞かせるための新しいタンゴを書いたピアソラ、その二つの要素がクラシック演奏家に受けたのかもしれません。
 しかしながら、彼らの演奏はクラシック的すぎる、タンゴの語法を知らなさすぎるので、お薦めは致しかねます。ピアソラにあってピアソラに非ず。

 だんだんと世間一般に受け入れられるにつれ、僕のピアソラ熱も冷めていきました。あまのじゃくな性格だからかもしれません。
 ピアソラって知ってる?なんてつい最近知ったような人に聞かれると、まあね。なんてちょっと醒めた言い方をして、あんまり深く話そうとは思いませんでした。彼らの知っているピアソラとは、大体がクレーメルやヨーヨーマなどのエセ・ピアソラだったのですから。
 僕の部屋に来た人には、CD棚からピアソラのオリジナル取り出し、部屋の空気を満たすこともありました。あれ、これ演奏しているの誰?なんて言われるとちょっと誇らしげに、ピアソラの古い録音だよ。なんて答えるのです。

 しかしながら、そうやって無関心を装っているうちに本当にピアソラを聞かなくなってしまいました。関心がなくなってしまった、ということではないけれど、聞くのに疲れてしまったのです。
 密度の高い音楽は僕を疲れさせる、例えばバッハやバルトークのように。ずいぶん熱中してCDを集め、楽譜を買い漁り、集中してピアノを弾いた日々。しかしそれらに集中するのに疲れてしまいました。一過性の熱病のように取り付かれていたのかもしれません。

 メノモソを作り始めてから殆ど忘れかけていたのですけれど、昨日テレビ東京のそして音楽が始まるという番組でピアソラが取り上げられているのを見て、ピアソラが好きだったことを思い出す。ピアソラの音楽を好んで聞いていた、という以上に、僕自身のクラシックでもポピュラーでもジャズでもないという中途半端なポジションと彼の音楽とを重ね合わせていたことを思い出したのです。

 思えば、僕の好きな作曲家はある傾向を持っています。生前は周りに理解されず、死して名を残す。先に出たバルトークはアメリカで白血病にかかり、失意のうちにこの世を去り、バッハの晩年も不遇で古い遺物のような扱いを受けていました。バルトークは後にエルネ=レンドヴァイの本「バルトークの作曲技法」によって真価を世に認められ、バッハは世から忘れられようとしているところをメンデルスゾーンの「マタイ受難曲」指揮演奏によって発掘されました。
 ピアソラの生まれた時代が早過ぎた、そう言う人もいるでしょう。ですけれど彼がいなければ次の世代、モダンタンゴは生み出されず、ヨーロッパナイズされ時代錯誤で骨抜きのコンチネンタルタンゴを良しとしていたのかもしれません。

 十八の春に図書館で聞いた曲、それが長いこと僕に取り付いているのです。神も悪魔も信じない無宗教な僕なのに。
 神から遣わされた曲「天使のミロンガ」。僕はその魔力に取り付かれ、ピアソラ亡き後も彼の音楽を愛しているのです。

 これが神から遣わされた天使によって魔力に取り付かれた男の物語。いま話が始まったばかりです。
 これからも僕はピアソラを聞き、ピアノの前で姿勢を正し、あの当時と変わらぬ気持ちで曲作りに励むでしょう。僕の曲が輝きを持ち、空を飛ぶ天使の羽になる日を夢見て。

PIAZZOLLA.ORG

 英語。ピアソラ死して指導者を失いタンゴ界は混沌としてしまう。クラシック界ではどうだろう、未だに指導者と言える人物を見いだせないのか。ピアソラは生涯彼自身の音楽、アルゼンチンの新しいタンゴに誇りを持ち、どこにいても決して妥協することはなかった。僕も志は高く、ピアソラのようにありたいと思う。

02.10.22(Tue) 広告あれこれ
 刺激的なコピーや絵で見る者に訴え、購買意欲を煽る広告。メディアや町中にあふれていますね。静的なものよりも動的なものの方が刺激が強いので、注意を引きつけられる。どうにかして見られるようなものを、と作る側も躍起になっているのです。

 テレビ番組の本編よりもCMに入ると音が大きくなる、誰もが感じていることでしょう。比較的静かな話を中心とした番組の合間に大きな音量。大概CMの僅かな時間に雑用をする人も多いので、ちょっと大きな音ぐらいで良いのかもしれませんね。

 元気な声で市内を回る選挙カー。選挙期間中だけだとわかっているのですけれどかなりうるさい。映画や音楽を鑑賞している、あるいは心を落ち着けるために風呂に入っている時など、嫌がらせじゃないだろうかと思ってしまう。僕にとって暴走族の騒音と同義、うるさいだけで脳がない。

 インターネットにも広告があります。僕のホームページにもくっついているのですけれど、いわゆるバナー広告というもの。昔はgifで軽いものが主だったのですけれど、ブロードバンドが騒がれるようになってからでしょうか、flashで制作されたものも多くなってきましたね。
 静的なものよりも動的なものの方が訴える力が強いので、ごく自然の成り行きでしょう。

 僕のブラウザではYahoo!がホームになるように設定されています。ネットを使い始めたときからそうなので、なかなかgoogleなど有用なものに変えられません。三つ子の魂百まで、Yahoo!をずっと遣い続けることになるのかも。
 Yahoo!の広告も変わってきました。ネットを使い始めた六年ほど前は広告の数も今ほどではなく、たまには押してみようかなという気にもなりました。しかし、どのページを見ても広告が入るようになると、徹底して避けて通るように。見られてこその広告、もはや意味を成していないのではないのでは。

 ところで。コンピュータは使う人の環境に大きく依存します。たとえば、ゲームをやっている方だとよくわかると思うんですけれど、ビデオカードが古いと動かないものがあったりして。最近だとファイナルファンタジーがラディオンで動かない、何て言う噂。
 それほど環境は関係ないだろうと思われるインターネットでも、そういう類の問題が起こりうるのです。Yahoo!のトップページにあるバナー広告なんですけれど、こんなのがありました。

「十月二十六日は原子力の日 原子力情報サイトへGO!」

 これ。今は見えているんですけれど、アプリケーション立ち上げ過ぎてメモリが足りなくなってくると、僕の環境ですとflash広告はメモリ不足で見られないんですよ。プラグインを立ち上げるためのメモリがありません、云々というエラーが出てしまう。

 刺激的なコピーや絵で見る者に訴え、購買意欲を煽る広告。静的なものよりも動的なものの方が刺激が強いので、どうにかして見られるようなものを、と作る側も躍起になっている。
 それはよくわかります。しかし、バナーすら出てこなくするようなflashで制作するならば、gifでも良いんじゃないのかな。ネット広告は僕にとって暴走族の騒音と同義、うるさいだけで脳がない。みなさんはどうでしょう。

ネット広告講座

D.A.Consortiumより

 電話勧誘やダイレクトメールを見るに、望んでいないのに一方的に送りつけられる宣伝方法は嫌われるんじゃないのかな。そういう点では埋め込み式のバナーはまだしも、ポップアップ式のものは許し難いと感じる人も多いはず。

02.10.23(Wed) 血の儀式
 酒のためであろうか、はたまたテーブルの炎のためか、若い男女の顔が赤い色に染まる。赤は血の色、人の体に流れる真赤な潮。これから血の儀式が始まろうとしています。

 白地に青い上薬で色づけされた皿が各々の前に配される。テーブルの上には鉄板が置かれ、皿に乗せられた物体を焼き、口に入れるのです。
 ごくり。誰かの唾を飲み込む音がします。もう待ちきれないのか、手早く皿から肉を取り火にかける。かつて意志を持っていた生き物もいまでは哀れな姿。どこで生まれたか、またどこでこの姿にされたのかはとんとわからない。それが何であるか、などという無粋なことは誰も聞かないし、聞く必要もないのです。肉を食らう、それのみが天から与えられた使命であるかのように、次々と得体の知れない肉を火に放り込む。

 空気が熱く、そして重い。皮が焼ける音がする。もう死んでいるにもかかわらず、未だこの世に執着を残しているのか、肉片が動く。ぴくり。死後硬直なのかもしれません。肉片は動く。熱い、助けてくれ、そんな音が聞こえてくるのです。
 頃合いを見計らったかのように、焼けこげ縮れた肉に手が伸びる。鋭利な歯で噛みちぎると口の中に、血と匂いとが充満する。少しだけ開いた唇から、赤い色が見え隠れ。血。肉の血。得体の知れない死の匂いが口から発散され、それが空気を重くしているのかもしれません。
 臓物が次々と各人の前に運ばれ、焼かれ、胃に収められる。心臓、腎臓、胃。ありとあらゆる臓器が、人の胃に収められていく。焼けた匂い、死の匂いは口だけでなく、髪、服、体、ありとあらゆるものを犯していくのです。

 何のものとも知れぬ肉を喰らい、己の血肉とする男女。目はゆらゆらと赤く燃えさかり、恍惚の笑みさえ浮かべているのです。死肉を喰らう者たちの晩餐は終わったけれども、これが儀式の終わりではありません。これから血の祝宴に移るのです。

 先ほどの晩餐のおかげで力がみなぎってくる。血が体を駆けめぐり、無尽蔵の力を与えてくれるのか。
 祝宴を盛り上げるのは歌。死肉への感謝、生け贄への弔いの歌。骨を手に握りしめ、自分らの頭蓋骨を振るわせ、魂を搾り取り、詩にする。男女にとって詩は死、死の歌なのです。男女が入れ替わり、骨を奪い合い、死歌を披露する。そればかりか、男と女で生を慈しむ歌もあるのです。

 そうやって死肉を喰らい、骨を奪い合い死歌を歌う。誰しも熱狂し、狂信的になり、我を忘れ、死を見つめ、生を渇望する。明日への挽歌。それが血の儀式なのです。
 今日お話したことは他言無用。決して口外してはいけません。もし口外するならば、あなたも血の儀式に参加しなければならなくなるでしょう。

追伸 僕の携帯電話にメールが届きました、友人からです。焼き肉とカラオケはとても盛り上がって楽しかったよ、と書かれていました。

HAGAKURE理論

 牛肉の臭いを嗅いだだけで吐き気がするし、カラオケは生涯行かないと誓ったほど嫌いなので、僕は誘われても何が何でも断る。たとえ片想いの人から言われたとしてもこればかりは無理。そうは言ってもネットの合コンやらオフ会、一回ぐらい参加してみたいなぁ。カラオケと肉は抜き、それが必須条件。しかしこのサイトを見たらオフ会ってたくさんあるのね、ちょっと外れたところにいる僕には驚きでした。

02.10.24(Thu) 蛇のとぐろ
 一巻き二巻き三巻きと、ぐるぐるまわって巻き付いて、蛇のとぐろが出来ました。舌をだしてちろちろと、こちらを向いて威嚇して、今にも牙をむいて飛びつきそう。あぶないから近寄ってはいけません。もし近寄ったらぐるぐると、巻き付かれて息出来ず、死んでしまうかもしれません。

 蛇ってあんまり見たことがないんですよ。まだ子どもで野原や田んぼで遊んでいた時分、蛇の死骸を見たという記憶はあるんですけれど。動物園以外で他には見た覚えがありません。母は家の庭で最近見て腰が抜けそうになったと言っていました。
 蛇っていうのは毒がある種類もいて危ない、という知識はあります。だから仮に蛇を見たとしたら近寄らないで無視するのが一番。素人考えでハブを捕まえたいだとか、そんなことは微塵も考えたことはありません。

 青大将っていうのは毒がないらしいですけれど、それだって触りたいと思いません。気持ちが悪いじゃないですか、そんなの。生理的嫌悪感は免れません。そういう蛇のイメージがメデューサの下地になっているのでしょう。見たものは恐れや嫌悪のために、石のように硬くなって動けなくなる。

 あの忌まわしいとぐろを町中で遭遇したらどうなるか。ちょうど昼時のことでした。一巻き二巻き三巻きと、ぐるぐるまわって巻き付いている蛇のとぐろを見たのは。それは殺気立っているようにしか見えません。やはり蛇は怖い、ひょっとしたら毒があるのかも、巻き付かれたら死んでしまうかも、なんて思ったのです。

 ほら、あんなに人がいっぱいで、ぐるぐると狭い中に押し込められ、列がとぐろを巻いてしまった銀行の昼。僕は見てしまいましたよ。むっつりと嫌悪感で押し黙って、一言も発せず、といったように。
 
 見たものは恐れや嫌悪のために、石のように硬くなって動けなくなる。蛇を見たとしたら近寄らないで無視するのが一番。

 銀行でお金を振り込むのを諦めた僕でした。

メデューサ

幻想図書館、ファンタジー辞典より

 ギリシャ神話の中では有名人、誰もが一度は耳にするはず。ドレッドヘアってちょっとメデューサに見えませんか?

スネークマンショー

TBSより

 小学校の低学年で聞いたスネークマンショー、僕の人格はこれで形成されたのかもしれない。YMOがこんなのやるなんて。ラストエンペラーの人ですよ?アカデミー賞ですよ?癒しですよ?地雷撲滅ですよ?ある一面だけで人を判断するのがいかに危険かわかる。

02.10.25(Fri) 歴史的建造物を前にして
 古くからある建造物を見ると実に立派。ピラミッド、万里の長城、法隆寺。建物それ自体を見ても凄いのですけれど、それを作った人々はもっと凄い。歴史的建造物を前にすると、いつでもこんなことが頭に浮かぶのです。
 建物は歴史を今に伝え、その歴史を人が作る。

 日光東照宮にある薬師堂。ここには鳴龍と呼ばれる仕組みが施されており、その不思議な仕組みを今日でも体感出来る。龍鳴に聞こえるかどうか、というのは人それぞれなのですけれど、こういう洒落っ気が昔の人にはありました。
 日本懐古の建造物、法隆寺。いくつものプレート上に位置するこの国では地震も数多くあるのに、木造建築である建物が今に形を残す。阪神淡路大震災で堅牢だと思われていた建物が次々と倒壊したのを知っているので、法隆寺の凄さがわかるというもの。
 中国には万里の長城、月から唯一確認が出来る建造物。全長約六千七百キロ、一万三千四百万里もの長さのあることから万里の長城と呼ばれています。中国という国が長い歴史を持つことが、この建物一つで見て取れる。

 さて中国といえば同じアジアの国にありながら、今一歩日本人にはよくわからないのです。日本企業が中国に多くの工場を建て、また中国からは多くの人が日本に来ているのにも関わらず。
 学生や知識人が民主化を求め運動をした天安門事件。天安門広場を舞台にしたこの闘争は、政府側による武力鎮圧という形で決着し、約三百もの命が奪われたのです。
 時折この広場の絵をテレビや雑誌などで見ると、やはり天安門事件を思い出してしまいます。これもまた歴史の一ページなのでしょう。

 さて、先日久々に天安門広場をテレビで見ました。ニュースの中に取り上げられていたのですけれど、見た人はいるでしょうか。

「北京・天安門広場の吐き捨てガム、六〇万枚分も」読売新聞、国際より。

 中国といえば同じアジアの国にありながら、今一歩日本人にはよくわからない。中国のみなさん、ガムのポイ捨てはやめましょう。これの示唆するところは、ゴミのポイ捨てやタバコのポイ捨てもやめましょう、日本のみなさんもということ。
 中国は日本人にはよくわからない、とは言え、このぐらいはわかるでしょう。

 建物は歴史を伝え、その歴史を人が作るのです。

世界遺産

TBSより

 タバコのポイ捨てを見てムカムカしてしまい、この日記と相成りました。タバコを吸っている両親を見て僕は育ったので、喫煙反対論者じゃないのですけれど、ポイ捨てはどうでしょうね。これを見ると人として恥ずかしい。その人のした行いが、その人の人格を形成するのです。こういう人は世界遺産の前でも平気でゴミを捨て、落書きをするのかもしれないなぁ。

02.10.26(Sat) 降りかかる火の粉は払え
 子どものけんかは大したことはない。腕力が小さいので相手を傷つけるところまでいかないのです。しかし大人が腕力に任せて殴ったら、結果は火を見るよりも明らかでしょう。もしもに備えて誰かが止めに入らなければいけないのだけれど、興奮する人を押さえるのも一苦労。

 始めは些細なものでした。ちょっとしたにらみ合いという程度。じりじりとした焼けるような熱い空気が伝わり、そのうちに火がつくのです。発火点に達したらあとは燃えさかるのみ。腕まくりをし、取っ組み合いをすることに。

 僕はけんかなど野蛮なことは嫌いですし、自分から仕掛けたことはありません。出来る限り相手の下手になり、怒らせるようなことはしないのです。一見ぼーっとしているように見えますけれど、見えないところでは神経を使っているんですよ。
 だけれども、こちらに火の粉がかかってきたら、一刻も早く消火しないといけません。僕はキリストほど出来た人間ではないですから、右の頬を打たれて左もだまって打たせるほどお人好しでは。かといって目には目をと力を持ってうち負かす、なんてう蛮行はしませんけれど。
 とにかく、僕は出方を考えなければいけなかったのです。ちょっと興奮していたのもあるのでしょう、いつもの冷静さはそこになく短絡的な考え方に傾き、僕はそいつを殴ることに。振り払う火の粉は払わねば。

 僕は小柄な方ですから、腕力勝負ではどうにもなりませんので武器を手にする。そこら辺に転がっていた二本の棒。幼少の頃は剣道を嗜(たしな)んだ僕です、手にした棒は今や剣と同じ。いやに手にしっくり来るではありませんか。
 まずはゆっくりとした動作で腹に一発。ドン、という鈍い音。そしてあばらの辺りにも一発、カツッっという乾いた音。

 僕の中で何かが目を覚ましました。暴力的な嗜好性は皆無だと思われていたのに、その音を聞いたら意識が飛んでしまったのかもしれません。後はもう、そいつをひたすら打つ、殴る。鈍い音と、乾いた音の連続。

「ねぇ、もうよしときなよ。それ以上は大変だよ」

 女にそう言われて、ようやく僕は我に返る。あぁ、何てことを。殴打をどれほどくり返したのかわかりません。それほどに興奮していました。顔は赤くなり、全身に血が凄い勢いで流れているのがわかります。肩で息をしていました、それほど殴ったのでしょう。
 興奮が醒めてくると、何で僕がここまで興奮したのか、ここまで殴らなければならなかったのか、それを考えるようになったのです。

 あぁ、いけない。こんなことをしてはいけない、子どもではあるまいし。しかし、飛んできた火の粉は払わなければ。大人げない、とみなさんお思いでしょう。僕もそう思います。
 僕はここで一つの告白をしなければなりません。殴打を繰り返ししている時に、恍惚の笑みさえ浮かべていたことを。この時間がずっと続けばいい、そしてめちゃくちゃにしてやりたい、そう思ったことを。僕はそんな人間なのです。

 飛んできた火の粉、それはある一言でした。

「太鼓の達人を買ってきたからやってみない?」

 その挑戦めいた言葉に反応してしまい、太鼓型コントローラーに向かい、鉢を握りしめ、小一時間ばかり殴打した僕です。恍惚の笑みを浮かべ、めちゃくちゃに鉢を叩き、ずっとこのゲームをしていたいとさえ願いました。

 興奮した人を押さえるのは一苦労、と彼女。でも、買ってくる方が悪いのさ。老若男女問わずゲームは好きですからね。

ナムコ・ドンだ〜ページ

 ゲームセンターに太鼓の達人という音ゲーがある、というのは知っていた。けれども、こんなに楽しいものとは知らなかった。DDRも楽しいと思ったのですけれどそれ以上。複雑だから面白いとは限らないんだなぁ、どうやら単純だけれど奥が深いゲームが僕の好みらしい。このキャラクターを書いている人って、すしあざらしの人かな?キャラクターの性格が立ちゲームを盛り上げる。

02.10.27(Sun) 悲鳴と共に音が消える
 悲鳴と共に、今、一つの命が消え去ろうとしているのです。許されざる、惨たらしい方法によって。

 ちょっと古い話をいたしましょう。この世界には人道に劣る愚劣な人殺し、公開処刑がまかり通っていた時代がありました。見せしめとしての処刑と呼べるのかもしれません。有名なところではフランス革命によりアントワネットがギロチンにかけられ打ち首にされました。フランスの民はそれだけに飽きたらず、移動式ギロチンで次々と政治家や貴族を追い回し、次々と首をはね落としたのです。
 裁判によって死刑にされれば仕方がないとお思いでしょう、それが司法制度なのですから。しかしながら、中世には魔女裁判などというものもありました。ペストが流行していた時期におかしな言動や行動をする者は、異端尋問官によって裁判に掛けられ、火あぶりの刑にされたそうです。
 その他にも無数の処刑の方法が開発されました。中でも惨たらしいのは鉄の処女と呼ばれる等身大の人形。前が扉になっており、中に鉄の針があるというもの。もっとも、これは処刑に使われたのか、刑罰につかわれたのか定かではありません。

 さて、ここに非公開の処刑が行われました。その惨さは上記のものと比肩するでしょう。そんなに悪いことをしたわけでもないのに、そのものは処刑されてしまったのです。運命のいたずらか、はたまた現代の悲劇か。そんなことを考える間もなく絶命したのが救いだったのかもしれません。

 四肢を紐でつなぎ馬に引っ張らせる引裂刑、これが今回の処刑を現すのに近い。馬は使いませんでしたけれど、強い力で引っ張られ、引裂刑の文字通りになったのです。下肢は裂かれ二目と見られぬような有様、前はどんな姿だったのかを想像出来ないような惨たらしさ。

 僕はその許されざる、惨たらしい処刑に立ち会いました。望んでその場にいたのではありません、出来ることなら居合わせたくありませんでした。

 場所はフィットネスのスカッシュコート。僕が右足を限界まで伸ばし玉を取りに行った時のことでした。僕しか知らない、知られてはいけない非公開処刑。下肢からぶちっという悲鳴が聞こえ、一つの命が消え去ったのです。

処刑人

 死刑制度は難しい問題を孕んでいる。死によって罪を償えるのか。死刑することこそ殺人ではないのか。殺人罪で死刑にならなかったとしたら、殺された者の遺族の感情はどうなのか。死刑制度反対、とは安易に言えないし、死刑を肯定することも出来ない。映画や本の中だけの話になると良いんだけれど。

02.10.28(Mon) 音の消えた街
 起きた時から気がつきました。始めはぼんやりとして実体を伴わず、あぁそうなんだという程度。しかし、身支度を整え街に出て、僕はそれが異常だということに気づいた、というよりも気づかされたという方が正しいかもしれません。街に音がないのです。あれほど騒がしく、僕を悩ませていたのにもかかわらず。

 やけに静かでした。僕の耳が悪くなった、というわけではなさそうです。試しに鼻歌を歌ってみるとちゃんと聞こえますから。いつもの賑やかな、むしろ五月蠅いとすら感じる街の騒音、そういうものが一切聞こえないのです。
 車から出る音。毎朝声をかけてくるおばさん。厳つい顔をしたおじさんの怒鳴り声。爽やかな青年の挨拶。必ずと言っていいほど聞こえてきた声が、僕には聞こえませんでした。

 昨日までとは明らかに違う。この違いは一体何なのだろう。きっと僕と同じで、声が聞こえなくなってしまった人が大勢いるに違いない、そう思ったのです。しかし、僕の声は届かないでしょう。
 毎朝声をかけてくるおばさん、厳つい顔をしたおじさん、爽やかな青年、そういった愛すべき人達が僕の前から消え去ってしまったのですから。いなくなってみると、あんなに五月蠅く鬱陶しかった声も懐かしい。

 僕は一人ぼっちになってしまったのでしょうか。声をかけてくるものはおらず、声をかけようにも街に僕の知る人はいない。この街には誰も。

 十月二十八日、街から音が消えた日。前日までは選挙演説と広報カーから流れる声が朝から晩まで街中に響き渡っていたのに、今日、一切の音が消えました。

 政治家の声はもう聞こえません。音の消えた街。これから先、僕らの声は彼らに届くのでしょうか。

バスター・キートン資料館

 政治家は口先だけ。それが商売と言うのなら別にかまわないですけれど、ちゃんと利益を生んでください。政治家のためではなく、国民のために。
 それはそうと、昔の無声映画は声や音がなくても十分面白い。そういえば黒澤監督も無声映画をイメージしながら映画を作ったそうだし。必要以上に音楽や会話がありすぎじゃないのかなぁ、最近の映画は。

02.10.29(Tue) 紳士協定
 彼と僕との間で交わされた紳士協定、破ることは決して許されない。そんなのは下衆(げす)のすることであって、紳士たる僕たちにとっては無縁のこと。しかし、協定の期間ももう残すところわずか、これから熾烈な奪い合いを繰り広げることになるのです。

 黒い背広できちっと決めた男、それが彼。どんなことがあっても黒い姿、それが彼のトレードマーク。書ききれないほどたくさんの噂を持つ彼、そのうちの一つは恐ろしいもの。
 彼は死を運ぶ商人だというのです。葬式がよく似合いそうな黒い背広のせいだと思うんだけれど、あながち嘘ではないのかもしれない。彼ほど得体の知れないものは僕は知らないし、それにいつも何かを虎視眈々と狙っているあの目。あれに見つめられると背筋が凍るような気がするのです。

 一人の女の子をめぐって僕らは争いをしている。それというのも、彼女はまだ若く成熟にはほど遠いから。そのために彼女が十分に色気が出るまで、つまりある時期が来るまで待とう、というのが紳士協定の内容。
 僕は未成熟の尻の青い子を追い回して犯罪者呼ばわりされたくないし、彼は彼でそんな女はつまらないとでも思っているのかも。何れにせよ考えていることは同じ。紳士協定の期間が切れたなら、即座に女の子を自分のものにしようということなのです。

 彼女は大事に育てられてきました。手をかけ磨き上げられたその身体は艶っぽい。まだ尻の青いうちは興味もさほどなかったのだけれど、だんだんと年を重ねるに艶っぽくなり、彼と僕とに無言で訴えかけているかのよう。ほら、私って色っぽいでしょ、もう子どもじゃないのよって。

 待ち続けていた紳士協定はやっと切れました。長かった、本当に長かった。どれだけこの日を待ち望んだことか。彼女の挑発に耐え、じりじりとした時間がやっと終わったのです。

 紳士協定が切れたのを受け、彼と僕との熾烈な奪い合いが始まりました。彼は彼女を手込めにするべく、なんだかんだ口を出しをし、彼女をものにしようとしています。
 彼女を僕のものにすべく、彼女の全てを奪いました。奪ったという表現はちょっといただけないかもしれませんね。でも実際にやることをやったのですから、言い訳は出来ません。

 彼と僕との間で交わされた紳士協定、破ることは決して許されない。そんなのは下衆(げす)のすることであって、紳士たる僕たちにとっては無縁のこと。しかし一度期限が切れれば、僕らは下衆に成り下がる。

 黒い羽をした烏から熟した赤い柿を守り、今朝、僕は食卓に並べて食べました。烏と僕との紳士協定。青いうちは柿を食べられません、取る時期が重要なのです。

柿本人麻呂

やまとうた、千人万首より

 死んだ爺さんは詩人で文章を書いていた。その際のペンネームは柿本山人と名乗っていたらしい。爺さんによって書かれた本を見たことがあるのだけれど、何せ子どものころだったので興味がなかった。好きだった柿本人麻呂と、家にある実り豊かな柿から連想したのだろうか。探したけれど、本は家のどこにも見あたらなかった。

02.10.30(Wed) 怒りの女
 いつもにこにこしているA子さん、僕は彼女が怒っているところを見たことがない。かちんと来てしまうような言葉も、彼女の前には意味を成さないのです。持って生まれた性格なのでしょう、とても物腰がやわらかくて良い人です。

 コートを着るにはまだちょっと早いかな、なんていう秋と冬の間。着るものをどうするか悩みます。部屋には暖房が入っているので快適、と思いきや、外行きの格好をしているとちょっぴり暑いですから。

 A子さんも厚手の服を着ていました。ちょっと暑そうですけれど、僕は薄手のものを着ていたので少々寒かったのです。暖房を入れると僕はちょうど良い、しかし彼女は暑い。暖房を切ると彼女はちょうど良いけど僕は寒い。とても微妙な加減です。

「TackMさん、ちょっと寒そうですよね」

「あぁ、薄手の服ですからね。でも平気ですよ」

 彼女は首を傾げちょっぴり思案し、服に手をかけ言うのです。

「ほら、これならお互いちょうど良いんじゃないですか」

 着ていたものを一枚脱ぎ去ろうとする彼女。しかし、何かが引っかかっているのでしょうか、うまく脱げません。両手を上げ脱ごうとしてじたばた、いらついている様子がよくわかります。うんうんと唸り声が聞こえ、だんだん怒りが募ってきているみたい。

 しばらくの格闘の後、ようやく服を脱いでこちらを向いた彼女の顔は着ていた赤いセーターのように紅潮していました。

「いじわる。何で助けてくれないんですか、もう!」

 口ではそんなことを言っていますけれど、彼女の顔は笑っていました。本当は怒っているのかもしれませんけれど、やわらかな物腰のためかまったく怒ったようには見えません。
 持って生まれた性格なのでしょうか、僕は彼女が怒っているところを見たことがありません。A子さんはとても物腰がやわらかくて良い人です。

 彼女を見るとセーターから出た静電気のために髪は逆立っています。真っ赤な顔をして髪が総毛立つ。

 いつもにこにこしているA子さん、怒ることなどないのかもしれません。しかし、さしものA子さんも今日はセーターのために怒髪天を衝くのでした。

完璧

ハルビン会話クラブ、よもやま話、文化的な話題より

 怒髪天を衝くのエピソードが書かれている。普段何気なく使われている言葉の由来って、調べてみると面白い。呉越同舟も中国の故事成語だし、死屍に鞭打つなんかも平王の墓をあばく故事じゃなかったかな。しかし、このページのトップは意外だった、googleってすごいなぁ

02.10.31(Thu) Good morning,Mr.Sandwich.
 今日もその男は街角に立つ、それが彼の仕事だから。ぼんやりと街角に立ち、体の前後につけられた板を街行く人に見せるのです。体を板に挟まれていることから、人は彼をMr.サンドウィッチと呼ぶ。

 彼はどんな悪天候でも街に立つ。寒い北風が吹く極寒の地でも彼の仕事は変わらない。体の芯まで冷え切るような寒さの中、コートを羽織って体を温めながら、前後の板を人に見せるのです。
 炎天下でもやっぱり彼の仕事は変わらない。灼熱の太陽が彼の肌に火傷を負わせようとも、彼は微動だにせず、前後の板を人に見せるのです。

 Mr.サンドウィッチは一人じゃない、彼には仲間がたくさんいる。しかしそんなのはどうでも良いこと。立って広告を見せればそれで良い、その中のものの個性などは関係ないのです。一人がいなくなれば他のものが取って代わる。それに、もし代わったことに街行く人が気づいたとしても、Mr.サンドウィッチと呼ばれることには変わりはないのだから。

 こう言っては何だけれど、彼は広告それ自体に興味がないのです。広告主には申し訳ないのだけれど。どんな文字が書かれていても、それがどんなに立派な文句でも、人は気にも留めないのだから。
 ただ彼の中身、彼自身には興味をもってもらいたい。そうしないと彼の、Mr.サンドウィッチとしての意味がなくなりそうな気がして。他の誰でもない、彼が彼であるために、彼は今日も街に立つ。

 今日も明日もあさってもその男は街角に立つ、それが彼の仕事だから。ぼんやりと街角に立ち、体の前後につけられた板を街行く人に見せるのです。

 おはよう、Mr.サンドウィッチ。今日の中身は卵だね、とっても美味しいよ。

サンドイッチ

インターネットマガジン【konet】、コラム、過去の雑学コラムより

 賭トランプの最中に両手でナイフとフォークを使えず、食べる時間もないことからサンドイッチを考案したサンドイッチ伯爵。しかし、自分で作るとなるとサンドイッチはとっても手がかかるのです。ホットサンドイッチでは言うまでもないでしょう、平日の朝から作るのは無謀なのかもね

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