障子はがたがたと音を立てて、隙間からは風が入ってくる。風の強い日だった。少し開いた障子の隙間からは空が見え、風に押されて雲が流れていく。 お天道様が昇り暖かい日差しが入ってくるようになると、人々は活動を始める。武士、農民、職人、商人。天下に身分の違いはあれど、日の光は四民平等にやって来る。こんな世知辛い世の中だけれど、そんな様子を見せずに働く人々。侍は一番上の階級だというけれど、本当にそうであろうか。 ぶらぶらと市を歩きながら考える侍。こうして米の飯を食えるのは誰のおかげか、それは一重に農民が苦労して田を耕し稲を植え収穫しているからだろう。それを巻き上げているだけの武士は、果たして一番上の階級たる資格などあるのだろうか。ましてや飢饉が続いた厳しい冬のこと、民は搾取されていると感じているに決まってる。
雲は良い。流れに身をまかせていれば、どんなに厚い層でも吹き飛んでしまう。それに泣きたいときには雨の涙を流せるし、笑いたいときにはお天道様がつき合ってくれる。ところが俺ときたらどうだ。嫌がる農民から強引に米を奪っているだけではないか。血も涙もなく引っ立てる、これのどこが偉いというのだ。涙を流すことも出来ず、笑うことも出来ないなんて。
そんな理不尽とも感じる己の職務を考えると、鬱々とした気分になる。だからこうして市に来て、美味いものでも買って、憂さを晴らそうとしているのに。俺の心の奥底よ、どこまで層の厚いもやもや雲か。 不意に誰かが袖を引っ張る。辺りを見回すと誰もいないのに、まだ誰かが袖を引っ張っている。目線を水平の位置から下にずらすと、小さな女の子。侍はかがみ込んで、どうしたんだいとやさしく尋ねます。
「お侍さま、お願いです。この壺を買ってくださいませ」
青磁であろうか。小ぶりの壺を女の子は見せるのです。世事に疎い侍のこと、物の価値などとんとわからぬけれど、興味を引かれるのです。
「お嬢ちゃん。どうしてこの壺を売ろうと思ったんだい」
「この壺は死んだおっ父が残してくれた大切なもの」
「だったら何故」
「おっ父は一生懸命働いて米を作ったけれど、飢饉が続いて不作だった上に年貢を納め、おっ父の残してくれた食べ物もなくなり、これを売らないと食え死にしちゃう」
嗚咽のために最後の方は聞き取りづらかった。この子は必至だ。汚れた格好をしているけれど、心は清水のように澄んで綺麗なはず。壺がどれほど値打ちがあるかわからない、だけれどこれが俺がこの子にしてやれる唯一のこと。直接この子の父親から年貢を奪ったわけではないけれど、何とかしてやらねばならん。 本当は価値がないものかもしれない。だけれど、言い値で買ってやろう。でもこの子の心を傷つけないために、一応しっかりと物を見るふりをするか。あまり簡単に金をやると、こちらの心を読まれてしまうやもしれぬし。
「どれ、一つ見せてもらうかな」
その子の腕から壺を取り上げると、両の目を近づけ、外からぐるりと回し見る。次には中を改めるため、蓋を取り、頭上に掲げ下から覗き込む。うむ、暗くてよく見えないな。そう思い、目を壺の穴すれすれまで近づけ中を見ると。つーっと、蜘蛛が糸を垂らしながら下りてきた。それも侍の顔に。
ぎゃっ、と叫び壺を放り出すと、空中で弧を描き、地面に落ちて割れる。割れる音は侍には聞こえなかった、何故なら突然得体の知れない物が顔に乗っかり気が遠くなり、更に大きな音を立てて地面に倒れ込んでしまったのだから。
壺は、蜘蛛は、そして女の子は?両手を握りしめながら僕は目覚めました。あぁ、そうか。あれは夢だったんだ。ベッドの上で半分体を起こしながら、夢の出来事を反芻します。もし蜘蛛が出て気絶しなかったら、どういう帰結になったのだろう。ハッピーエンドにはならなかっただろうなぁ。心臓は未だに激しく打ち、こめかみがどくどくしているのがわかります。よほど興奮したのでしょうか、呼吸も寝ていた人のそれではなく荒い。 もう一度眠りにつこうと体を半身の体制から仰向けにした時、視界の角で何かが動くのを捉えました。そちらの方を向くと、天井から蜘蛛が顔の付近につーっと糸を垂らしながら降りてくるではありませんか!
ぎゃっ、と叫び蜘蛛から逃げようとすると、僕の体は大きな音を立ててベッドから落ちてしまいました。いててて。
そうか、お前があの夢を見せたのか。でも、どうしてあんな夢を見せたかったんだろう、違う夢でも良かったろうに。僕は蜘蛛の糸をすくい取り、窓の外へ逃がしてやりました。
蜘蛛は窓から外に行き、上を見上げれば風に押されて雲が流れていくのが見えました。雲の切れ間から朝の日差しが微笑みかける、良い一日になりそうです。
■ 蜘蛛の糸
青空文庫、芥川 竜之介より
朝に見た夢を慌てて紙に書いたもの。実際に部屋に蜘蛛もいたし、殆ど脚色していません。まぁ、上からつーっと降りてくるっていうのは違いますけれどね。壁にへばり付いていたのを外に逃がしたっていうお話です。 |