義務教育あるいは高校において、一度や二度学校の怪談というのを聞いたことがあるでしょう。噂に尾ひれがついて、話が独り歩きをしただけだと馬鹿にするけれど、中には本物の怪談があるのかもしれません。
人は自分と違う容姿を持つ者に抵抗がある。今でこそ見慣れてしまった茶髪も、出始めた頃は一部の跳ね上がりどもが存在を誇示するためにしていました。最近では染めた方が軽いから、みんながしているから、など特に意味を持たずにやっているのでしょう。人間中身が大事と言っても、印象は外面に大きく左右されるものなのです。
外見の違いはそれだけで注目の対象と成り得るのか。会う人会う人すべて、一人の例外もなく、僕の指に視線が集中してくる。もちろん彼女も。血の跡がつく絆創膏。好奇の目は注がれ、何事があったのかをさも心配した顔で聞いてきます。 まぁちょっと、なんて視線を外して曰くありげな顔を作り、聞かれるのは心外だという雰囲気を出してみる。すると彼女は、その場では一応「そんなに関心はないのよ」というすました顔をするのです。その作った顔の下の心を知っていますよ、僕は。野次馬的好奇心を持って絆創膏の下はどうなっているのか、どうやって傷つけられたかを探っている。それはそうでしょう、そんな傷一つで曰くありげな顔をされたら。頭の中では妄想が渦巻いているはずです。
帰りに思い切って食事に誘ってみました。誘い文句はこうです「よかったら食事でもどうですか、この指先の秘密に興味はありますよね」。指を立ててひらひらと彼女の顔の前で動かして見せる僕。 読みは当たっていたのでしょう。数分の後、薄暗い照明のこぢんまりとしたレストランに、僕らは向かいあって座ってたのです。
食事が運ばれているまでの間、僕はある話をしました。薄暗いレストランの雰囲気が僕の波長に合い、そういう話をさせたのかもしれません。店に入るまでに考えていた話は別にあり、何故そのような会話をしなければならなかったのか。それは雰囲気がそうだったとしか言いようがないのです。
学校の怪談。どこの学校にも一つや二つはある、ごくありふれた話。
音楽室には当然の事ながらピアノが置いてあります。誰でも弾けるようにと鍵はかかっておらず、昼の休み時間など女の子がやって来ては弾いている。そんな光景はよく目にします。身近な中・高校生活の一ページとして僕の脳裏に焼き付いていますし、ここは上手く弾けないのと笑いながらも真剣な顔をして弾いていたあの子の顔を思い浮かべることも出来る。 しかし、深夜誰もいない音楽室のピアノが鳴り始めたら。そんなことはありえないでしょう。ピアノは人がいて始めて音が鳴る、機械制御の電子ピアノとかいうつまらない話ではありません。さらに、その鍵盤の白鍵には血がべっとりと付着しているのだそう。紅白はおめでたい色合いだけれど、そんな白鍵と血の対比は不吉なだけ。見る者の顔は引きつり、血に弱い人は気を失う人だっているでしょう。 ピアノを一生懸命練習していた生徒。しかしそれを妬む者がいて、ピアノの鍵盤と鍵盤の間に挟んであったらしい。その子が練習している曲の最低音、そこに剃刀が仕込んであったそう。fffで触れた瞬間スパッと指が切れる、二度とピアノが弾けないぐらいに。
水を飲むことなくそこまで話した頃、給士が食事を持って来ました。食前のワインにも手をつけていません。僕らはワインを飲み、会話をしながら、ゆっくりと食べ始めました。肉が嫌いなので僕は魚を、彼女はミディアムというよりはレアに近い焼き具合の肉。
「で、そのピアノの音がしたのは二時頃だったんだってさ」
「そうなの。でもそんなのありふれた話じゃない、別に怖くないわ。どうせ作り話でしょ?」
「まぁ、話は最後までよく聞くものだよ。この話のミソはね、それを目撃したのは僕だってことなんだ」
ワインを飲む手を止め、訝しげな目をする彼女。そこで僕は彼女の前に指を突き出して見せる。
「こうやって、ピアノを弾いていたら血が噴き出したんだよ」
突き出した指から絆創膏を引き剥がすと、長い傷跡が露わになる。鋭利な刃物でスパッと一気につけられたような跡。指の肉を押すと、治りきっていない傷口からじんわりと血が出てくる。彼女が頼んだ肉のように。
「どうしたの、これ?血が出ているじゃない」
「だから言ったじゃないか、怪談話さ」
「真面目に聞いてるの!」
話はこう。夜中に曲を書き、ピアノで音を確認していたんです。思いついたものを素早くスケッチするために、紙資源をどんどん無駄にしていく。心の焦りが手元を狂わせたのか、素早く紙を取った五線紙が僕の指を裂く。開かれた皮膚からは血が滴り落ち、鍵盤を血に染める。とまぁ、こういうこと。
「怪談話はともかく、傷の手当てをしなくちゃね」
僕の指を取り口元に近づけたと思ったら、ピチャピチャと音を立てて血を美味しそうに舐める彼女。そんな仕草を見て、不覚にも鳥肌がたってしまったのです。
「血液はワインだって言うものね」
と、淫靡な笑みを見せワインを飲む彼女。僕はどういう顔をしたらよいのかわからなくなり、彼女が血を吸った傷口を見て、同じように血を吸ってみる。僕が嫌う牛肉同様の鉄臭い血の臭い、それがワインの残り香に交じって口の中に広がりました。人間が獣であることを痛烈に意識させる臭いです。
「今のって、人が見たらどう思うんだろうね」
「さぁ?わからないけれど、良くない噂にはなるんじゃないかしら」
一度や二度学校の怪談というのを聞いたことがあるでしょう。でもそんなのを信じている人はいないし、怖くもない。 僕が怖いのは、噂に尾ひれがついて話が独り歩きをすること。その中には本物の怪談があるのかもしれません。義務教育あるいは高校において味わうことのない、大人の怪談なのです。
「ねぇ、もっと怖い話をしてあげようか?」
顔をワインのように赤らめ黙ってうなずく彼女。口中には先ほどの血の味がまだ残っているよう、獣の、本能を呼び起こす味。 共に食事を手早く済ませ、僕らは夜の街へと足早に消える。ごくありふれた話です。
■ 月下の恋
amazon.co.jpより
ハリウッドのホラー映画というのは、恐怖に恐怖を煽るという子供向けの娯楽に過ぎない。過剰なまでの演出と、驚かされるタイミングに慣れてしまったら、白ける一方。その点、この映画は良かった。大人の怪談、という気がします。 さて。うわさ話というのは怪談のようなもの、両方とも実体がありません。願望やら嫉妬、恐怖など心にあるちょっとした負のもやもやが、形となったものかもしれませんね。今日の日記は日常か、創作か。それこそ怪談なのです。 |