騙す者と騙される者、この二者に世の中は分類される。妻を見ていてつくづく思う、俺は彼女に騙され続けていると。
妻と出会ったのは五年前。病院の待合室でとなりあわせになったのがきっかけでした。毎週同じ時間に顔を合わせるので、だんだんと気になる存在に。男はただの風邪だったけれど、女は心臓に持病があるのよって。あまりに事も無げに言うので冗談かと思ったけれども、結婚してからそれが本当であることに気づく。たまに心臓発作を起こし苦しそうにしているのを見ると、こちらも胸が締め付けられるような。妻が苦しいときは自分も苦しくなる、妻が嬉しいときは自分も嬉しくなる。妻のために一心に働き、彼女の欲しい物を自由に買わせる。宝石、ブランド物の服。妻に何と似合うことか。
二人が一心同体、そんな蜜月も長くは続かない。妻の物欲には際限がなく、欲しい物を買い漁る日々。ある程度の地位を得て少しは余裕が出来るはずなのに、貯金がないとはどういうことだろう。一度しか袖を通したことがない服のために、汗水垂らして働かなければならないのは我慢が出来ない。心臓病の妻に苦労をかけたくない一心で働いた報いが、この粗末な食事だとでも。この生活には耐えきれない、妻が愛しているのは金だけ。俺は騙されている、病院で始めて会った日から。貞淑で潔癖で頼りない、そんな自分自身で紡いだ妻のイメージに騙されている。
もう騙されるのには堪忍ならない、今さら愛してもいない妻と一緒には暮らせない。彼女は承知しないだろう、理想の金蔓である俺との離婚なんて。だったら殺すしかない。そう、ただで殺すのは勿体ない。妻には散々金をかけてきたのだから、そのお金を返してもらわなくては。保険金殺人というのが頭に浮かぶ。彼女はここ数年発作を起こしていないとはいえ、心臓病を抱えている。そう、発作が起きたときに薬を飲まなければ死ぬだろう。
ピンポーン、と来客を告げる音が鳴る。妻はいつも通りに買い物に出かけているので、仕方がなく玄関へ向かう。戸を開けると、カチッとしたスーツに身を包んだ女。
「N保険の者なんですけれど、保険に入っているでしょうか?」
N保険なんて聞いたことがない。間に合ってます、と普段なら言うところ。だけれど男は妻を殺すことで頭が一杯、目の前にいる女はどうにかして保険に加入させたがっている。渡りに船とはこのことか、断る道理はない。自分を引き取り人にして、妻の生命保険に入ってしまおう。もちろんカモフラージュのために自分も生命保険に入ろうか。そうすれば後は妻が発作を起こすのを待つだけ。ちょっと言い争いをしようものなら、興奮してすぐにでも倒れるだろう。前にも一度そういうことがあったし。
「それにしても、N保険なんて始めて聞きましたよ」
「えぇ、新興の保険会社なんですよ。外資で体力がありますから、掛け金の割には支払額が大きいんですよ」
「ははぁ、では掛け金を大きくしたらどうなりますか」
「もちろん他社よりもずーっとお得ですよ」
お得、か。騙されるより騙せ、世の中はこの二者しかない。殺しも商売になるなんて、保険は実に有り難い。金目当ての殺人が起きるのも通りだ、こんな美味しい話は他にないだろう。
「ところで、奥様とは結婚してどのぐらいになります?」
「五年、ですかねぇ。彼女の魅力にすっかり騙されてしまったんですよ、ははは」
「相思相愛でうらやましいですね。でも、私たちは騙さないでくださいよ」
和やかな雑談ムードだったけれど、この女は俺の計画に気づいていたのか。いや、そんなはずは。これはただの冗談だろう。
「まったくー、冗談は止めてくださいよ。保険金詐欺なんかするわけないでしょう」
「そうですよねー、馬鹿なこと言ってすみません。あはは。何かあったら私の方まで連絡を下さい、すぐに飛んでいきますからね」
数ヶ月の後。会社から帰ると、妻はまた高価な服を何着も買い込んで嬉しそうに眺めている。もう我慢ならない、離婚をほのめかすと口汚く罵る妻。どんどん興奮していくのが手に取るようにわかる。握りしめた拳、飛び散る唾、口紅より赤い頬。わざと気に障るような事ばかりを言い妻を苛立たせる俺。激高する妻は手を振り回して暴れるが、そのうち胸が苦しくなってきたようで床にうずくまり、助けを求めてきた。だが、救いの手を求めても無駄というもの。今度は俺が妻を騙すのだ。
妻が死んだのを確認してから救急車を呼ぶ。何かボロが出やしないか、殺したのが見破られないか心配したけれど、そのようなことはなかった。心臓発作による死と医者に認められた、即ちこれは犯罪ではないということが確認されたということ。大手を振って保険金を貰える、憎い妻を殺して。俺は、最後に騙したのだ。
大急ぎで保険屋に連絡を取る男。保険外交員の女に貰った名刺に電話をかける、がしかし通じない。現在使われておりません、と声の抑揚がないメッセージが流されている。間違った番号にかけたかと、もう一度電話するが結果は同じ。女の電話番号が変わったのか、そうに違いない。そこで保険に記載された番号に電話するも、全く関係のないところに繋がってしまう。電話案内でN保険会社を調べると、そんなところはないとのこと。そんな馬鹿な。 慌ててネットでN保険会社を検索すると、何件かヒットした。そこに飛んでみると。
『N保険を詐称する新手の詐欺にご注意』
騙す者と騙される者、この二者に世の中は分類される。妻のいない広い家の中で男は泣いた。俺は騙され続けている、と。
■ 黒い家
Amazon.co.jpより
貴志祐介の出世作。ちょうど和歌山保険金詐欺事件があった頃に読んだので、やたらとリアルに感じ、怖かった覚えがあります。今日の日記はもちろん創作ですよ。たまたま保険の勧誘が来たので、ちょっと思いついただけですからね。犯罪は許すまじ。 |