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メノモソはmusica-dueの一部です
03.11.01(Sat) 幅の広い旋律
 人間の歌える範囲というのは広いようで狭い。カラオケなどで喉を鍛えた人や歌手ならともかく、歌い慣れていない人は男も女も大体1オクターブ前後ぐらい。声に出して歌える範囲内で曲を書くとすると、やっぱり1オクターブ前後に落ち着きます。
 しかし、ピアノ曲を書くならば、そんな音域の制約は本来無いはず。だけれども、やっぱり意識しないと狭い音域で書くことが多いのです。もちろん機械的に音域を上げ下げすることは出来ます、例えばゼクエンツ(同型反復)で音域を広げるやり方。これは楽チンなんですけれど、歌っている途中で切れ目が一つ出来てしまい、また次にいくのがわかってしまう。僕がやりたいのは二オクターブとか三オクターブの旋律をひとかたまりとし、且つ歌えるようにしたいのです。息の長い旋律、とでも言えばよいのでしょうか。

 前回の曲「和音と旋律」では下方向に音域を広く持たせました。一見うまくいっているように見えますが、かたまりの視点からだと、この低音旋律は一小節単位の周期運動ですから、一息で広い音域というのには程遠い。
 ここで考えられる理想の旋律というのは、プロコフィエフ第七交響曲の第一楽章。実に二オクターブもあり、肉声で歌おうとすると裏声になってしまうほどです。このような広い旋律をピアノで歌わせ、ゼクエンツをするか何かで鍵盤の左端から右端まで使うような曲を書いたら面白いかもしれません。

 そこまで広い音域だと声に出して歌うのが大変、ということはなかなか覚えられないのではないでしょうか。覚えやすい旋律=歌いやすい旋律という図式がありますからね。練習曲として試しに作ってみようかな。

Prokofiev Symphony#7 1st.Mov

Amazon.comより

 プロコフィエフはわかりずらい旋律もたくさん書いているけれど、このように綺麗な旋律も書けると知ったときの驚き。いや、普通は「ピーターと狼」「古典交響曲」「キージェ中尉」あたりを一番始めに聞くと思うのですが、僕が聞いた一番最初の曲は「第七ソナタ」ですからね。
 それはそうと、日本のアマゾンは怠慢!アメリカアマゾンだと試聴が出来るのに、なぜ日本のアマゾンは出来ないのでしょう。ちょっと腑に落ちないのです。

03.11.03(Mon) 登場人物の行動原理
 キャラクターが立っている。小説や映画などで登場人物が個性的で生き生きとして、他の登場人物とは異なる価値観をもって行動しているときに使う言葉ですね。映画や小説などは人間を書くことが主題で事件などは飾りだと僕は思っていますから、人間が書けていない映画は見る気がしません。もちろん、事件などが飾りと書きましたけれど、それらが面白いのは作品上当たり前のこと。
 もし仮に、主人公を含めた登場人物全てが没個性の人間であったなら。これは殆ど映画になりません。きっかけが起こりようがないし、起承転結も起こらないでしょう。上手くいくとしたら、見る側に全てを委ねる定点観測のような作品の場合でしょうか。小津安二郎の世界です。

 登場人物はどのような行動を取るか。作品を見てみると、作者の考えを越えて動き回っているのではと思わせるようなことが時々ありますね。活動的な登場人物は好き勝手にいろいろな事をしでかすので、作者が作品を収拾しきれない場合もあるかもしれません。そのぐらい登場人物は勝手気ままなのです。
 ただし。登場人物にはその人なりの行動原理があり、それにそぐわない動きはしないのです。例えば、小学生がゲーテを暗唱したりすることはないでしょう。普段部屋に閉じこもっている男が、何時間も人を走って追いかけることもありません。あり得ないのです。もちろん、あり得ないことを逆手にとって、狂気などを書くことはありますよ。しかしそういうのを書く場合、普段の静かな男と、狂気に取り憑かれた行動とを対比し、その狂気に至る過程を書くと思います。狂った男の隠された行動原理、とでも言いましょうか。

 作曲をしていて困るのは、旋律が勝手に進んでしまうことです。こちらが制御したくても、制止をすり抜けて先に行ってしまう。音楽そのものが持つ力、楽器が持つ力、それが進もう進もうとするのです。
 「旋律は八小節」や「同じ伴奏の形」、「体位法として正しい旋律」「和声の機能」など気にするといけません。八小節で収まらないのならば九小節だろうが十小節だろうがかまうことなく、カノンで違う形になったとしても音楽が違う形を求めているのなら変えた方が良いし、ドミナントがサブドミナントに行ったとしても、良い結果になることが多いのです。好き勝手にやるのとはちょっと違い、音楽がそのように望んでいるのだから、望んだ通りにそうする方が良いのでしょう。

 望んだ通りに、と言っても音楽の行動原理にそぐわないことはやっぱりしてはいけません。楽器の音域を無視する、弾きようがないフレーズを書く、望まない音を出す、などなど。

 作者は必ず作品を制御します。小説も、映画も、音楽も。ただし、登場人物の望むがままに。旋律が、楽器が、音楽が望むがままに。

小津安二郎 DVD-BOX

amazon.co.jpより

 小津安二郎の映画は嫌いじゃないけれど、時間的なゆとりがないときには見られません。ゆったりと時間が流れていく感覚は、忙しない現代人には失われた感覚なのかもしれません。普段はこんなダルい映画見たくないんですが、時折ふと見たくなります。

03.11.04(Tue) ブンチャッチャ
 みなさんはワルツと聞いてどんな曲を思い浮かべますか?子犬のワルツ、花のワルツ、シュトラウス二世の一連の作品と、ワルツと言ってもこれだけたくさんのものがあるのです。しかし、ワルツである以上、一定のリズムがあるのはご存知の通り。そうです、あのブンチャッチャです。
 ブンチャッチャが出てくるとワルツだな、と強く印象に残りますね。一定のリズムがずーっと続いているから、覚えやすいのです。ここに落とし穴。ブンチャッチャのリズムに気を取られ、肝心の旋律が全く印象に残っていない場合が多いのです。単純なリズムの上に、単純な旋律。創意工夫を見出すのが難しいのかもしれません。ここで投げやりになって適当なブンチャッチャを作ってしまうと、新たに創作する意味がないような気がします。

 一つの例として、ラヴェルは見事なワルツを書いています。「高雅にして感傷的なワルツ」という作品は、ブンチャッチャではありません。ラヴェルにしか成し得ない、懐古趣味的な感じのする耽美なワルツなのです。

diary031104.mid / 「ハ調のワルツ」練習曲

 典型的なという言葉、僕は大嫌いなのです。例えば、ソナタに典型などあるのか?一つとして同じものがないのに、典型的なというのはおかしい。しかし、ワルツは典型的なという言葉がまかり通っているよう。ブンチャッチャ伴奏に旋律という組み合わせの、単純な作品が世に溢れかえっています。ですけれど、そうであってはいけません。
 「ハ調のワルツ」練習曲、いろいろ仕掛けがしてあります。楽しんでください。譜面は今週末までには何とかします。

03.11.05(Wed) 練習にならない練習曲
 九月に入ってから練習曲を書き始めたのですけれど、当初の予定とはだいぶ狂ってきてしまいました。バイエルやピアノのアルファベットぐらいの難易度で、一ページないし二ページぐらいに作品規模を収めて二十曲前後。これが目標だったのです。ハードディスク内のこれまでに作った練習曲をすべて聞いてみて、ちょっと失敗したかなと。

 再考するきっかけとなったのは、NHK教育の趣味悠々という番組。その一つにお父さんのためのピアノという枠があります。素人のお父さんがピアノの前で緊張しながらピアノを弾く。楽譜にもなれていないし、ピアノにも慣れていない。当然、音はボロボロです。初心者であるお父さんは難儀してピアノを弾いていて、それを見て思うのです。あぁこんな難しい練習曲を書いていてはいけないのかな、と。

 そんなわけで、自分の書いた曲をふり返ってみたのです。作品の難易度で言うと、バイエル卒業程度、あるいはもう少し進んだ段階でしょうか。部分的に弾くのが難しいところもあります。テンポの速すぎる曲が多いのも難点。

 とまぁ難点だらけなのですけれど、曲の面白さは一曲毎に増しています。作品の規模も大きくなってきました。すでに簡単な練習曲という制約から一歩踏みだしています。狭い意味では練習曲ですけれど、練習という枠に囚われない自由な小品群でしょうか。

 いくつか考えているのは、曲集を二冊とか三冊にして難易度順の構成にするとか、別の枠組み(練習曲ではない)として編集し直すか。今のままいたずらに規模を大きくすると、間違いなく弾けない人続出です。まぁ、バルトークのミクロコスモスみたいに六冊も書くのなら、少々難しい曲でもいいのかな。六巻なんて相当練習しないと弾けませんからね。

 MIDIを聞いてくださった、あるいはプリントアウトして弾いてくださったみなさま。メノモソ練習曲はどんな塩梅でしょう。

Mikrokosmos

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 毛嫌いする人の多いバルトーク。楽譜を見ただけでは何が何だかわからない人も多いでしょう。一度騙されたと思ってミクロコスモスの六巻、六つのブルガリアのリズムを聞いてみてください。

diary031104.mid / 「ハ調のワルツ」練習曲

 一日しか掲示していなかったので再掲。浄書の時間がなかなか取れず、楽譜完成まで時間がかかるかもしれません。

03.11.06(Thu) 運指とフレーズ
 作曲をするときにいつもピアノがあるか、というとないことが多い。ピアノを前にしている時にだけアイディアが浮かぶとは限らないし、第一アイディアやイメージが浮かぶ前にピアノを弾くのは厳禁だからです。何もイメージが無いときに鍵盤を触っても、大概指が作ってしまうし、同じようなフレーズしか出てきません。アイディアが思い浮かぶのは、鼻歌交じりに散歩している時とか、風呂場、電車の中、トイレ、車の運転中などなど、鍵盤などないことがほとんど。そこで慌ててスケッチしたり、携帯に録音して、ピアノの前に向かうのです。
 イメージがあったとしてもピアノを弾きません。音を確認するだけです。まず始めは五線紙に旋律と和声をちょこちょこと、思い浮かんだ分だけ書き殴る。四小節ないし八小節がせいぜいで、一曲まるまる書けてしまうなんて間違ってもありません。その四小節なら四小節を、今度はコンピュータに入れ直す。四小節を何回か再生してみてイメージを更に膨らませる。すごく上手くいくと、曲の構成がいっぺんに見えます。真っ暗なトンネルから外に出たような感覚でしょうか、ゾクゾクッと鳥肌が立つこともあります。確率はすごく低いけれど、たまにはそういう幸運も。しかし、ほとんどの場合ここから五線紙とコンピュータとを行ったり来たり。そう上手い具合に出来ていないのです、この世の中。

 紙と鉛筆、それにコンピュータだけでピアノ曲を作っていると、予期しないことがいくつも起こります。音域が足りない、あるいは絶対に弾けない部分があるなど。でも、これはあまり問題ではありません。何故なら、音域や弾けない箇所は絶対に直さないといけないとわかっているので、その箇所は諦めがつくからです。じゃぁ、ああしようこうしようと、すぐに代案が浮かびます。
 頭の中ではこうあるべきだ、と言う箇所が実はとても弾きづらいこと。これが一番厄介なのです。僕は自分の耳を頼りに作曲しているので、耳が不自然だと感じないのならば禁則を犯すこととも厭いません。ただ、弾いてみたら弾きにくくてあまりにもイメージとかけ離れてしまった、というのが困るのです。心の中にある音は、この音で正解だと訴えていますから。
 その多くは技術的な問題。例えば、ドレミファソと弾くのに12345で指を動かせば極めて自然です。しかし、ドレミファのファの部分で親指をくぐらせて弾けば、12345の指使いよりもほんの少しだけ滑らかではなくなります。もちろん、これは簡単な例なので不自然には聞こえません。でもこれが複雑になってくると、運指がフレーズを左右する事態になるのです。

 運指が先か、それともフレーズが先かと問われれば、心の音はフレーズが大事だと言っています。でも、弾きづらい。無理して弾こうとすれば弾けないことはない、音的には正解。それなのに実際に出てくる音は何かが違っている。そのために音を変えるのは何か違う、でも変えないとやっぱりおかしい。

 このような葛藤を、今日一日延々としていたのです。解決策今だ見つからず。

ピアノ運指法

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 ピアノ曲を書くときにはきちんと指周りのことを考えているつもりなのに、それでも指がついていかない部分を書いてしまう。そのある部分を縦(和音)で見た時には確かに弾けるのだけれど、横(時間経過)に動いたときに弾きにくくなることが多い。たぶん、ピアノを実際に弾きながら曲を書いたなら、こんなミスは起こさないハズ。すると今度はイメージが出る前に書く危険性があり、指が曲を作るので独創性がなくなってしまうのです。すごく難しい。ショパンやラフマニノフなどピアニスト作曲家はどうやって曲を書いたんでしょうね。

03.11.07(Fri) 真実の口
 映画館からの帰り道。見終わったばかりの映画が笑ってしまうほどつまらなく、いや最近の映画自体がそもそもつまらないよね、なんていう話をしていたのです。まぁ、その後なんとなく友人の家に行き、食事をしている最中。テーブルの脇には、たった今借りてきたDVD。

「ねぇ、ローマの休日の音楽って覚えてる?」

「そう言われると思い出せないなぁ。曲作ったのは誰だか知ってるけどね」

「誰?マンシーニ?それともニノ=ロータ?」

「はずれ。ジョルジュ=オーリックっていうクラシックの作曲家だよ」

「知らない、そんな人」

 まぁ、オーリックの名前が話題に上ることなんて、よほどのファンでない限りあり得ません。僕だって年に一回オーリックの名前を思い出せば良い方。だから彼女が知らなくても無理のない話。
 彼女はヘプバーンのファンで、たまにビデオ屋に行っては借りてくる。彼女の部屋に遊びに行くたびに見せられるのには辟易とさせられるけれど、食事をご馳走して貰えるのだし、黙っておこうかな。

「ヘプバーンの出てるので一番好きなシーンって何?」

「そうねぇ。色々あるけれど、真実の口のシーンなんて面白いわね」

 嘘を付くと噛まれるという真実の口。アン王女は自分がうそを付いているので怖くてちょっとしか手を差し入れられなかったけれど、思いっきり手を入れて噛みつかれるジョー。でも、アンをからかう演技。確かに、ローマの休日でも印象的なシーンです。

「ねぇ、何か弾いてくれない?」

「ん、何でも良いの?」

 こういうとき、多分ローマの休日の音楽でも弾けばいいのだろうけれど。僕はどうしてもどんな曲だったのか思い出せないし。変わりに、自作の曲でも弾こうかな。

 最新作のワルツ。ちょっと指使いがわからない部分があるけれど、まぁ雰囲気で弾けるかな。結構速い。彼女は小首を傾げながら聞いている、音楽を聴くときの癖。

「ぎゃ!」

「え、何?どうしたの?」

 架橋に差し掛かった時に脇見をしたせいか、それとも技術の不足からか。白鍵と黒鍵の間に爪を差し入れ、涙出そうなくらいのすごい痛さなのです。

「真実の口に噛まれた!」

「そうやって嘘をつくからよ、バカな人」

diary031104.pdf / 楽譜
diary031104.mid / MIDI

 お待たせしました。楽譜が完成しましたので掲示します。鍵盤と鍵盤に爪を挟む事なんてそうそうありません。そうならずに楽に弾けるよう気を配ったので、安心して弾いてください。

03.11.09(Sun) どのようにして曲を選ぶのか
 ピアノ曲を選ぶ時に、みなさんは何をもって基準としますか?ほとんどの人は、まず間違いなく曲を基準として選びますね。あの曲が弾きたい、この曲が弾きたい、あんな曲が弾けたらいいな、という感じ。美的価値観が最優先でしょうか。僕だってもちろんそうです。弾きたい曲があるから弾く。そこにあるのは耳の判断、つまり美的感覚なのです。
 では、作曲家は何を基準として曲を書くのか。これもやはり美的感覚です。どのような曲を書いたら美しく感じるのか。それを追究して楽譜にし、さらに演奏してもらうことで、聞き手の美的感覚へ問いかけるのです。

 しかしながら。演奏家が何を基準として曲を演奏するのか。実はこれについて少々わからないことがあったのです。例えばですよ、カバレフスキーという作曲家。いくつかCDを持っていて(他の作曲家に交じっていた)、音使いは嫌いではない、むしろ好きな方です。で、実際にソナチネの楽譜を買ってみると。CDで聞いたほど良くは感じないのです。ただ単純に、これは僕のピアノの技量が足りないためだとずっと思っていたのですけれど、実はそうではないことに気が付きました。
 tomlinさんから別件で電話があり、その際に運指とフレーズについてちょっとお話しました。それは前に書いた日記のことだったのですが、ピアノレスナー及びピアニストとしてどのような曲を選択するのか、というより突っ込んだ意見でした。

 ピアノレスナーは運指によって曲を選ぶ。だからカバレフスキーの曲は運指がよろしくないので使わない。使ったとしても、学習者がつまづき学習効果が甚だ悪いとのこと。あー、なるほど。CDのプロピアニストによる演奏と実際に弾くカバレフスキーとの違いに気づきました。プロならば弾きづらい曲でもさらりと弾くのはあたりまえ、でも学習者には弾きづらい。つまり、ピアノらしさには運指が大きく関係しているのです。
 だとしたらピアノ運指にかなったフレーズと、作曲家が感じる美的感覚との合致が絶対に必要ということです。ひいては、レスナー、ピアニスト、学習者すべてを満足させ得るピアノ曲、ということになるのでしょう。ル・クーペの「ピアノのアルファベット」は実に運指が合理的で、かつ美的です。

 うすらぼんやりと感じていたことが唐突に実体化したようで、少々戸惑っています。が、迷っている時間などありません。普通のコンサート用曲ならば少々運指が拙くても良いでしょう、しかし練習曲ではそうであってはいけません。次からもっと運指を突き詰めて考えることにします。

diary031104.pdf / 楽譜
diary031104.mid / MIDI

 PDFの掲示日数が少なかったので再掲。浄書の不具合を若干直しました。この曲は指使いについてかなり悩みました。そのぶん、演奏しやすくなっていると思います。

ピアノのアルファベット

 ル・クーペの練習曲。改めて弾いてみたら何と弾きやすいことか。僕の当初の計画はこのような曲集(ル・クーペ風の曲ということではありません、念のため)を書くことだったのです。ピアニストも作曲家も、ピアノから多くのことを学ばなくてはいけませんね。

03.11.12(Wed) 協和・不協和(禁則)
 和声学や対位法を勉強しているきにいつも感じていたのは、不協和音とか協和音って本当に協和と不協和なのかな、平行五度の連続はダメだとってどうしてさ、っていう疑問でした。例えばファーシ、シーファなどの増・減音程は不協和音で、ドーソなどの完全音程は協和音。これはまぁそうかなぁと思うんですよ。でも、常に解決しなくちゃいけない、っていうのは僕の中にある音としては違うかな、と思ったり。まぁ、クラシックの素養なんて高校生時分にはそう多いはずもなく、本に書いてあることに素直に従っていたのです。
 テストのときには仕方がないので従いますけれど、実際にはやっぱり違うんじゃないのかなと。不協和と言われている音でも、解決しないでそのまま連続して不協和を重ねていっても悪くないし、五度の平行なんてたまらない格好良さ。何て感覚にそぐわないんだろうって。
 そのまま和声学やら対位法なんかを学習し続けて、近代和声とか近代対位法に行き着いたときに、ようやく使ってよいとされるのです。
 歴史と共に人々の耳のセンスが養われ、複雑な音でも美しいと感じるようになったわけですけれど、そこに至るまでには何百年もかかりました。だからといって、これからめちゃくちゃなことをしたら何百年後に認められる、っていうのもありません。それまでの伝統に則って感覚が洗練され複雑化していき、今に至ったということなのです。
 何でこんなことを書いているかというと、「階段」練習曲があまりに複雑になってきてしまい、果たして練習曲として正しいあり方なのか迷っているからなのでした。和声学の範囲内では収まらない不協和が連続した曲で、練習曲として付いてこられる人がいるのか心配です。完成までもう少しかかるかもしれません。

※03:50AM 完成しました!

diary031113 / MIDI

「階段」練習曲。階段のような音型が随所に見られます。階段の昇降運動のイメージでしょうか。

03.11.14(Fri) 作曲に大切なこと
 時間もあることだし、それじゃ作曲をしようか。このぐらいの気安さで作曲をし始めても、ほとんどの場合は失敗します。作曲は時間がかかります。たった一分の曲に怖いぐらいの時間、それこそ十年単位でかかっている場合すら。だったら時間があるときに作曲すればいいじゃない、誰でもそう考えるでしょう。「ゲームしたりテレビ見ている時間があったら、どうしてその時間に作曲の一つもしないんだ」なんて両親にせっつかれます。ところがどっこい、そうそう上手くいかないのです。

 作曲にはインスピレーションが欠かせません。ひらめきがないと、いくら頑張ってもロクな結果にならないのです。ここで勘違いしやすいのが、座して待っていてもインスピレーションは沸かなということ。常に頭の中で音楽をイメージしていることが必要なのです。イメージの無いところにひらめきは決して生まれません。そして、ひらめきがやって来たときに、それを形にする技術があって、はじめて楽譜になります。

 それではインスピレーションが来たとします。でも、ここで取りかからなかったら全てが無駄。モチベーションが必要不可欠なのです。どうしても書かなければいけないという強い欲求、五線紙に向かわなければならないという使命感。使命なんて言うとちょっと大げさかもしれませんけれど、自分が書かなければ、自分でなければという意識がないと作曲をする意味がないのです。他の作曲家ではない、オリジナルの曲。他との差違をつけようとしなければ作曲を一生続けようとは思わないでしょう。他の作曲家と同じで良いならば作曲する必要は全くなく、他の人が作った曲を聴いて満足していれば良いのです。

 最後に一番重要なこと。一にも二にも体力です。モチベーションもインスピレーションも共にあるのに、体力がないと作曲は出来ません。モチベーションとインスピレーションが上手く絡まった時には、それこそ十時間や二十時間ぶっ続けで作業することも。極端ですけれど、これが書きあげらけれれば明日一日棒に振っても良い、とすら思いますからね。まぁ、本当に倒れたら困りますけれど。

diary031113 / MIDI

 一日だけの掲示だったので再掲。「階段」練習曲です。階段を擬した練習曲、はたして練習になるのやら。コーダが少々引っかかるので、直すかもしれません。楽譜は今週末から行います、お楽しみに。
 実は昨日頑張りすぎて、今日は本当にグッタリしていました。明日倒れても良い、なんて絶対ウソ。命あっての物種です。

03.11.16(Sun) パソコン騒動記
 メノモソに来る人の中にも車の運転が得意、と言う人もたくさんいるでしょう。毎日のように車に乗っている人、サーキットの走行会に行ってしまう車好き、そんな人もいるかもしれません。しかし、そんな人でも車の故障にあうと困ってしまうに違いありません。バッテリー上がりぐらいならばどうにかなるでしょう、しかし電気系統が故障したり、エンジンそのものがおかしくなってしまったら、素人の手には負えません。散々エンジンルームを空けたりオイルを見たりしてもわからず八方塞がりになり、最終的に車のディーラーなどの専門業者に来てもらうことになる気がします。

 実は我が家でパソコンを買い換えたのです。CD-R/wが壊れたのが二年前、それからはソフトも入れず(入れられず)、バックアップも全部MOでやる始末。年賀状作成時期に来てようやく年賀状ソフトが入らないことに気づき、買い換えと相成りました。で、購入したVAIOがようやく家に配送されたわけです。

 旧VAIO(前のWINもVAIOでした)と新VAIOを同じ机上に載せるべく片づけをし、配線周りを掃除し、書籍収納スペースを設け、ついでに部屋を掃除し、やっと箱から出します。新品特有の光沢と香り。一つ一つの配線を繋ぎ、いざ電源投入。

 セットアップウィザードをぽちぽち入力して、早速ネットに繋ぎます。すでにLAN接続してあるので楽勝、マシンパワーもあるしメモリも大奮発の1G。MSXの頃からパソコンに触っているので、ペンティアム2.6Gのメモリ1G、それにHD200Gなんて隔世の感。おかげでネットのページ読み込みの速いこと。
 次は今までしたくても出来なかった旧VAIOのバックアップ。必要なソフトを組み込んで、即バックアップ開始。さすがにmp3が大量にあるのでデータが重い。なのでチキンラーメンでも作って食べることにしました。

 両親も家にいて作業を見ていたので(家族共用パソコンなのでリビングに置いてある)、ラーメンを待つ間画面がキレイだ、速そうだ、格好いい、なんて話が弾みます。旧VAIOは五年ぐらいつかったから無事に減価償却が済んだ、などなど。
 ラーメンを食べながらぼんやりと新VAIOを見てみると、画面が暗くなっています。省エネ設定でしょう、エコが騒がれている世の中ですからね。旧VAIOを見てみると、きちんとファイル転送されているよう。

 汁までのんで箸を置き、新バイオに近づき省電力モードから復帰するためにスペースキーを押します。が、反応なし。続けてリターンキー、反応なし。焦ります、かなり焦ります。ラーメンを食べただけでは出ないような、いやな汗が滲み出るのを感じる。マニュアルを見てもスペースを押せば復帰すると書いてあるし。
 業を煮やして強制的に電源を切ります。画面が真っ暗なままなのでソフト的にではなく、電源ボタンを押す荒技。それでも切れないので電源を抜きます。数秒後にコンセントに電源を入れて、スイッチを押します。起動音がして、画面に表示され・・・ない!

 何度か同じ事を繰り返しました。それでもダメなので、仕方がなくカスタマーサポートに電話を。土曜日なので繋がりません。焦るしイラつきます。買って箱を開けた当日なので、イラつきは最高潮。
 やっと電話に繋がっていろいろ指示された通りにやっても、全く元に戻らず、相変わらず起動してもスリープ状態のまま。

 怒りを堪えてサポートのお姉さんに詰め寄ったところ、修理ではなく、初期不良として交換とのこと。コンピュータを二十年も使っている人間がこれなのですから、始めてコンピュータを買った人ならどうなるのでしょうね。コンピュータの性能は良くなっているけれど、取り扱うのは難しいものだと思います。

 素人はこうなるとお手上げです。心境としては車の故障と同じでした。
 
VAIO PCV-HS83

VAIO,デスクトップより

 昨日一日これで潰れました。夕ごはんを食べ終わったらもう精神的に疲れてしまってくたくた。今日もなんだか疲れが残っていて、浄書と作曲共ろくに進みませんでした。まいった。

03.11.17(Mon) 楽譜に書ききれなかったこと
 普段目にする楽譜やCD、そこにあるのは完成された音楽であるのはもちろんですね。しかし、その音楽が形になる以前にはどうなっていたのか想像したことがあるでしょうか。音楽と限定してしまいましたが、音楽だけではなく文章や彫刻などでも良いです。完成される以前の形というのは、ひょっとした目にしている物と全く異なるかもしれません。
 今日の昼、NHK総合の番組で矢野顕子がゲストとして出ていました。夜に録画したものを見たのですけれど、ちょっと面白いことを言っていました。

「電話線という曲を書いたのは今から二十年以上も前、でも書いた当時は曲の真価がわからなかった。それからずっとこの曲を歌い続けているけれど、いつももっと良い演奏、もっと良い曲になる気がする。だから今も歌い続けている」

 要約するとこんな感じです。矢野顕子にして自分自身の曲の真価がわからないことがある、ということが意外でもあり十分納得し得ることでもあるのです。彼女は楽譜を書くのが苦手で、イメージしたものがいっぱいいっぱいあるのだけれど、いざ楽譜にしようとすると、あれあれ?っていう感じだそうです。推測するに、楽譜に書かれていない音(気持ち?)がいっぱいあるのでしょう。

 今日掲示する「階段」練習曲、僕自身が実は一番真価をよくわかっていない気がします。書いているときにはもっとイメージがあったし、書き終わってからもあれあれ?っていう感じ。正に矢野顕子と一緒なのです。おちゃめさんが連弾を聞きたいという要望も、十分納得出来ます。僕の頭の中にあったのは連弾とか、二台ピアノとか、たぶんもっと豊かなイメージでしたから。それに曲の第二主題もあったために、曲の長さももっと長くなるハズです。
 作曲家本人にもよくわかっていないことって、そうそうあってはいけない気がします。でも、たまにはあっても良いのかもしれません。矛盾してますね。本人が出来に納得していないので、近い将来には連弾か二台ピアノに編曲(というか改曲)する気がします。

diary031113.pdf / 楽譜
diary031113.mid / MIDI

 大変お待たせいたしました、「階段」練習曲の楽譜浄書ようやく完成です。ちょっとした指使いと音色とを直すのにえらく時間がかかりました。四度の響きと白鍵黒鍵の違いをお楽しみください。

03.11.18(Tue) 新しいもの古いもの
 浄書を終えてからもいくつかしなくちゃいけない作業があって、昨夜は殆ど睡眠時間が取れませんでした。作曲をしているとどうしても時間が足りなくて、ついつい夜更かしをしてしまいます。体に毒です。

 コンピュータを新しく購入したのは先日お話しした通りなのですけれど、そこにインストールするべきソフトのリストアップをしました。専らMacを使っているのですけれど、今回は家族共有のWIN。もう何年も使っているのにも関わらずよくわかっていないので、インストール・アンインストールはおっかなびっくり。レジストリ、何ソレ?という感じなので危険極まりないのです。Macならばそれほどの危険を感じずに出来るんですけどね。

 話が逸れました。ええっと、ソフトのリスト中に音楽関連のものをいくつか。Win版でiTunesが出たそうなので、ちょっと使ってみたいなと。それにあれです、浄書印刷のためにアクロバット・リーダーは必須。で、新VAIOにインストールしたいところですが、箱から出した当日に壊れてしまったために目下鉄の箱になっているのです。だから試しに旧VAIOへ入れてみる。
 古い方のマシンには古いソフト(アクロバット4)しか入っていなかったので、いきなりVer.6ということになります。インストールしたらビックリ、スムージング処理が洗練されていて自作PDF楽譜の綺麗なこと!今までアクロバットは印刷すればキレイだけれど、画面で見ると汚いから話にならないと思っていたのに。

 たまにはソフトのヴァージョンをチェックしてみるものですね。少々興奮して眠気が収まりました。この調子で新VAIOも復活してくれれば良いのですが、まだ寝たりない様子です。あー、カスタマーサービスからちっとも電話かかってきません。こちらも寝ているのでしょうか。気が気じゃありません。体に毒です、本当に。

Adobe Acrobat Reader

 もう説明はいらないぐらい一般的なソフトになりました。全ての文書をコンピュータの機種に関わらず閲覧可能にしたアクロバット。これがないとメノモソ楽譜配信は成り立ちません。

diary031113.pdf / 楽譜
diary031113.mid / MIDI

「階段」練習曲、再掲。浄書のミスがあり直しました、おちゃめさんいつもありがとうございます。昨日のファイルをダウンロードされた方がおりましたら、今日のものと入れ替えてください。

03.11.19(Wed) Music lover
 今この文章を見ているのは間違いなくコンピュータを持っている人で、さらに毎日このページを見続けている人は少なからず音楽に関心を持っているでしょう。音楽というのは私たちの生活を豊かにしてくれます。音楽がその人の何割かを支配してしまう場合だってなきにしもあらず。
 コンピュータを持っている音楽愛好家は、ひょっとしたらコンピュータで音楽を聞くことが多いのかもしれません。立派とは言えないまでもステレオを持っているのにも関わらず、僕はパワーブック本体内蔵スピーカーで事足ります。たまにもう少し身を入れて聞いてみようかというときだけ、本体にスピーカーを繋げて聞く。というのは自分が普段聞くような曲であればmp3に落としてしまっているので、わざわざステレオの電源を入れようという意識が働かないため。HDに何枚分もCDが入ってしまうから便利です。もっとも大した量ではありませんけれど。

 電車に乗っているとポータブルのMDやCDで音楽を聴いている人を見かけます。移動する時間が手持ち無沙汰なので、いい暇つぶしなのかもしれません。最近ではiPodのようなHDプレーヤーもありますね。でも、一体こんなに容量が多くてどうするのだろうと思うわけです。移動時間に何千曲も必要ないですから。

 世の中便利になり、音楽も気楽に、大量に、安価に聞ける時代。しかし、量の増大が質と比例しているかと問われれば疑問に感じてしまいます。例えば、CDを大量に持っている人と話をする機会がありました。その人は大した量のCDを持っていて、何でも千五百枚も持っているそう。いろいろな曲を聴いているのでさぞ音楽にも詳しいのかと思えば、ただCDをコレクションすることに一喜一憂しているような印象を受けました。こういう人はけっこうたくさんいて困ってしまいます。CDをたくさん持っています、ヘーすごいですねー。これで会話が終わってしまいますからね。

 量と質とは必ずしも一致しない。もちろん一致することもあるかもしれません。でも時間は有限であり、無駄なことに時間を費やしていてはいけないのです。
 いたずらに数を誇るより、良質な曲を数曲で良いから、誰にも負けないぐらい語ることが出来る。そんな風になりたいと思いました。

iPod
iTunes

アップルジャパンより

 オーディオマニアとかクラシックマニア、ジャズマニアと呼ばれる人に、CDの枚数を誇る人は多い。枚数が多いことは決して悪い事じゃないけれど、それよりは一つに愛着を持ち、語れる人の方が僕は好きです。まぁ、僕のように殆どCDを聞かない、というのもかなり困ったものなんですけどね。曲のデータは買うけれど、本物のCDはもう何年も買っていません。

03.11.21(Fri) 共通の音楽
 先日はCDの枚数に関したお話をしたのですけれど、こんどは持つべき音楽について。学校や職場のみんなで音楽を聞くとき、どのような基準で曲を聞くますか。それは一人で聞くときと違いがありますか。まずはこの記事をご覧下さい。

記事 (Hot Wired Japanより)

 流して聞く音楽、たとえばよく職場ではFMラジオ(東京圏だとJ-WAVEかInterFMかな?)をつけていますね。で、お昼とかにかかっている曲について議論することがあるのです。まぁ、議論なんて大げさじゃなくて、寸評とか、自分の好みはこんなだ、あんなだ、なんてとりとめもない感じで。でも、そこで自分の持ってきた曲を流すのは大変勇気がいるのです。
 仮にA子さんとしましょうか。彼女はあるアイドルの曲が好きで、その新譜が出たというのでCDを買ってきたのです。で、みんなに聞かせてあげようと会社まで持ち込み、お昼休みに流しました。周りの反応はさまざま。無関心な者、A子さんといっしょに解説を読む者、あまり好みではなく不機嫌そうな顔をする者。という具合に、共通の音楽ではないのです。

 音楽は他のジャンルと一緒で年々細分化されてきました。一口に洋楽が好きです、邦楽が好きですと言ってもまず通用しません。ラップが好きな人もいればポップスが好きな人もいるでしょうし、クラブ風の曲(トランスやレイブなど)しか聞かない人だっているかもしれません。
 でも、他の人と一緒にいるときにはちょっと考えてしまうのです。僕はクラシックとジャズを聴きますが、どちらも全く高尚な音楽だと思ったことがありません(それについては追々書くことがあるかもしれません)。がしかし、それらを聞きます、作曲をします、なんて言うと高尚だと言われることが多いのです。人によってはスノッブな奴というレッテルを貼られるかも。

 じゃあ共通の音楽として持つべき者は一体何なのか、また、次の世代に残していけるものはと考えたとき、困ってしまうのです。
 今現存する全ての曲が百年後、二百年後に通用するかというと、恐らく殆ど全滅でしょう。ポップスなど60年代ぐらいのものはもう聞けませんしね。これは商業音楽に限ったことではなく、クラシックでもかなり怪しいところ。特に1900年代の中盤に作られたクラシックは、今も聞きたくないものが殆どですからね。

 日本中で、あるいは世界中で通用する、普遍的な価値を持つ、淘汰されない音楽。それこそが持つべき音楽でしょう。ジャンルは全く関係ありません、良いものは良いのです。みなさん、そんな曲を持ちましょう。聞きましょう。

欧州から見た「日本人の快挙」/「西欧崇拝」と決別しよう

Mainichi INTERACTIVE、記者の目より

 日本人の僕としては、日本人が日本人である曲を書かなければいけないと思う。ただ邦楽器を使った曲を書けば良いとか、日本の音階を使えば良いとか、そういう単純な問題ではないのです。クラシックを書こうがジャズを書こうが、はたまた商業音楽だろうか、どうしようもなく日本を感じさせてしまう曲。これですよ。

03.11.24(Mon) テレビを見るのは暇な証拠?
 忙しい忙しいと言っている人ほど、テレビを見たりして時間を無駄にしている場合も。僕の三連休もまぁ、テレビに暮れたと言ってよいでしょう。

 創作意欲あふれる土曜日、休み初日で気合いも入っていました。想像力がよく働いたために連弾「二人のソナタ」が順調に書き進められ、夜には主題と経過句まで終了。形すらなかったところから、ある程度目に見える形にするのにエネルギーが要ります。よく眠れました。

 寒さ厳しい日曜日、朝早くにVAIOの新品が届く。前にも書きましたように、購入後一時間もしないうちに壊れたVAIOが初期不良だったので交換したのです。
 取り付け作業後に壊れる前例もあるのでリカバリディスクを作るためにヤマダ電気へDVD-Rを買いに行き、即刻リカバリディスク作成。その後はインストール作業と、ログアウトしてしまっているサイトへ再ログイン、さらにはバックアップとてんてこ舞い。あーだこーだして本体の設定をしてから、新プリンタ設置。またもやEPSON。方式が変わって今まで使っていたインクがまったく使えなくなっており、今後懐が気になるところ。取り付けようとしたらUSBケーブルが本体に付属していないことに気づき、またもヤマダ電気へ。へとへと。

 さて今日は、やはりVAIOのセットアップ。必要度が低いながらも重要度が高いソフトをインストール。インストール作業の際、オンライン登録が必要なものがいくつもあり、入力にいらつく。この連休中だけでこの作業を何度繰り返したことか。
 昼には昨晩仕込んでおいたピザの生地を冷蔵庫から取り出し、ナポリピザを作成。せっかくサイバーショットとVAIOが家にありソニー製品で揃えているのだからと、写真を撮りまくる。これはその時に撮影されたもの。

ピザ生地作成 ナポリピザ完成

 ピザを作っているときに気がついた、というか思い出したのですけれど、今度のバイオはテレビに繋げる!まぁ、動画編集などはさして興味がない僕。しかしながら、それをキャプチャーしたりするのは面白そうじゃないですか。なので、やってみようかなと。

 説明書をみているうちに、我が家では壁の配線からテレビまで一本しかテレビの線が通っていないため、コンピュータにはこのままで繋げないことが判明。そのために、またもやヤマダ電気。今度は分配機、一度に買えばいいものを三回もいかなければならないとは。
 それからテレビをバイオに取り込むために設定をし、説明書を読み、付属品を接続し、いざ取り込み。一回でうまくいくとなんだかうれしい。さらに詳しく説明書をみていると、付属リモコンから予約録画が出来るというので、もちろんトライ。しかし、本体内にあるソフトが古いためにアプリケーションをダウンロードせよとの指示。仕方がなく従って、インストール。ほんとに時間がかかります。コンピュータが便利な道具と言ったのは誰だ、PCが金を生むと言ったのはどこの何奴。今のところ収入より出費の方が遙かに多い。

 ぐちぐち文句をたれながらも、PCにテレビ画像が映るというのはやはり感動的。その時点で「南極の日食」をNHKでやっていたので、取り込んでみました。そしてそれを静止画にして、いくつか壁紙にしてみたり。あぁ、後でメノモソの左上画像としてお目見えするかもしれません。

 こんな具合にテレビに暮れた三連休。決して時間を無駄にしたのではなく、充実した日々でした。

アツアツ!本格ピザを我が家で作る

ためしてガッテンより

 家で食べるピザって、冷凍のぺっちゃんこの味気ないものか、デリバリーの高いばかりで美味しくないものなので、ちょっとした衝撃を受けました。いやー、ためしてガッテンはためになるなぁ。ガッテン!ガッテン!!ガッテン!!!

03.11.25(Tue) スケッチ能力
 作曲とは自分の中にある音を増幅して、それを形にする行為です。体内にある音は形になっているようで形になっておらず、五線に書き入れると微妙な違和感を感じることも。はっきりと思い浮かべている場合には違和感は少ないのですが、まだ形にならない段階で書き始めると違和感ありあり。
 はっきりとしたイメージがあるにも関わらず、五線に書き入れられない場合も。これはスケッチ能力(ソルフェージュ能力?)が曲に及ばない場合、また、ちょっと背伸びした曲を書こうとしているときや、身分不相応に難しい大曲を書いているときにも起こります。

 中学一年から曲を書き始めたのですが、当時は今のような曲は書けませんでした。目指している方向性が違うというのもあるのですけれど、スケッチ能力が不足していて書こうにも書けなかったのです。二十前後ではとにかく身分相応な曲ばかり書いていたので、スケッチ能力の不足を感じたことはありませんでした。人のスタイルを真似し吸収する時期だったので、参考になるものがたくさんあったのです。

 今現在、スケッチ能力のかなり不足を感じます。音の響きに関して問題ないのですけれど、拍子感が大問題。どうにもよくわかりません。わかるまではスケッチを取るのが精一杯で、曲にならないのです。
 十年後とか二十年後には今悩んでいることがすらすら書けるようになるのでしょうか。中学のときに書いた曲が、今では雑作もなく書けるように。日々精進なのです。

人を書くのって楽しいね

 絵のスケッチと音楽のスケッチは近いものがあります。まずラフに書いて、だんだんと写実的になっていくという部分がそっくり。もちろん直接書き付けてしまうほど強烈に見えているときもありますけれど、旋律と和音がちょとだけっていう程度も多々あるのです。

03.11.27(Thu) モノに囲まれて
 みなさんはいろいろな物に囲まれています。生きていく上で必要不可欠なもの、あればうれしいけれどなくても困らないもの、そしてまったく必要のないもの。

 先日までやれWINだVAIOだと大騒ぎしていたのですけれど、週が明けたらそれらは全く必要のないものになってしまいました。今度のVAIOをどうして買ったかというと、旧VAIOのCDがいかれたためにいろいろ支障が出てきたからなのです。とにかくソフトをインストール出来ないのは困りもの。しかし、それ以外にはあまり困る事ってなかったんですよ。メールも出来る、ブラウザも立ち上がって閲覧可、更新用のソフトだってスピードは遅いながら現役で動きます。
 同じ机に二台のVAIO、起動するのはいつも通りの古い方。DVDが見られると言っても家じゃ未だにビデオテープだし、TV機能が付いているけれど殆どテレビ見ないので無用の長物だということに気づいてしまいました。あぁ、メーカーに踊らされた無用の買い物なのです。ただ、あればあるでうれしいんですけどね。

 もう一つ大きな買い物をしました。金額的にはそう大きくないけれど僕にとって大きいもの、そうです楽譜です。楽譜背表紙なある値段と財布とを見比べて高いなーとため息を漏らしつつも、結局買ってしまいました。楽譜はその場では高いかもしれないけれど、研究の対象として、演奏の楽しみとして、購入者の血となり肉となります。コンピュータが五年十年で買い換えを迫られることを考えたら、本当に安い買い物でしょう。

 ある人にとってコンピュータは生きていく上で必要不可欠なものかもしれません。またある人にとっては無用の長物であるかもしれません。わたしたちはいろいろな物に囲まれていますが、取捨択一するのは私たち自身なのです。

ベートーヴェン ソナタアルバム1

Amazon.co.jpより

 ベートーヴェンのソナタは校訂者(編纂者)によっていくつも版があります。前に使っていた楽譜がボロボロになってしまったために改めて購入。違う出版社のものなので、どのように違っているのか見るとなるほどなーと思ったり、指使いやフレージングに奇妙な違和感を感じたり、なかなかに面白い。

03.11.29(Sat) 作り手と聞き手
 人から見た自分の曲の感想、気にならないと言えば嘘になります。曲を書く以上よろこんでもらえるようなものにしなければ間違いだし、そのような曲を書いているつもりです。しかしながら、僕自身が思う自分の曲と、人が思う僕の曲というのは全く別のもの。

 両親は曲を聞いても感想らしい感想を口に出しません。大概は暗い、明るい、速い、遅いと、まぁこのぐらいが関の山。一番身近な人間でさえこうですから、かなりグッタリします。書いた曲は、その曲が書かれた時点での最高傑作であるわけで、高評とまでは言いませんが感想すらないのでは、かなり書く気持ちが薄れるのです。それでも書き続けるのは作曲が好きだからに他なりません。

 誰からも評価を受けないし、僕からも求めない、という状態が長く続きました。商業的作曲活動に嫌気がさして止めてから、あまりにも周囲に音楽のわかる話し相手がいなかったのです。
 周りは音楽には何の関わりもない人ばかり、普通のサラリーマンとOL、聴く曲はまず間違いなく流行歌だけ。それが悪いことだとは思いませんけれど、商業音楽制作に従事しほとほと疲れていた時期なので、出来る限り会話に加わらないようにしていました。この時期は自分の音楽の方向性と現実(商業音楽)との乖離に悩み苦しんでいて、音楽の話はなるべくしたくなかったのです。あまりにも話の方向が違いすぎているために自分の作っている(というか作りたい理想の)曲のことなど、とても話せない雰囲気じゃないですか。

 ただ、そのおかげで良いことがありました。昔々に書いて良いと言ってもらえた曲、それが何故良いのかを突き詰めることが出来たのです。それが僕の音楽が持つ色。その時期がなければメノモソ練習曲のような曲はこの世に存在してはおらず、人に感想を言ってもらえないからと必ずしも嘆くことはない、ということでしょう。

 それはわかっているのだけれど、やっぱり作る一方だけで人に聞いてもらえない、見てもらえないというのは、どこか間違っている気がします。作った以上聞いて喜んでもらいたい。人によっては望まれない曲(実験音楽ね)を作って喜んでいて、音楽の存在意義を疑います。
 
 今年に入ってインターネットのおかげでサイトを持ち曲を配信したおかげでしょう。何年も曲を書かずにグッタリしていたのですけれど、作曲をするのが再び楽しくなりました。やっぱり演奏してもらったり感想を言ってもらえると励みになります。理解されていることから来る充実感、素晴らしい。
 みなさまのライブラリに加えてもらえるような質の良い曲を書きますので、今後ともよろしくお願いします。

野村茎一作曲工房

 理解されないような難しい曲を書いているつもりもないし、書くつもりも毛頭ないのだけれど、どうしても難しいとされてしまうクラシック。その大半は食わず嫌い(聞かず嫌い、弾かず嫌い)なのだけれど、どうやったら聞いてもらえるのかというのは正直わかりません。そんな中でメノモソを見てくれる人がいて、さらにリピーターになってくれる人がいる。これは幸せなことです。ネット以前には考えられなかったことですね。
 気の早い話なんですけれど、来年度にはメノモソで掲示している練習曲が曲集になります。さらには共同ソナチネアルバムの提案も。両方とも作曲工房のtomlinさんからお話をいただきました、感謝感激です。

03.11.30(Sun) 連弾の楽しみ
 ピアノを習っている人が一番始めに行うアンサンブル、それはピアノの連弾でしょう。生徒がファースト、先生がセカンドで一つの曲を弾くのが一般的。ファーストは旋律を受け持つことが多く、片手でも十分楽しめる曲だってあります。そのため先生と生徒で行う連弾がきっかけになり、音楽の魅力を始めて感じる人もいるかもしれません。ピアノを習いたてだと左手がおぼつかないために、なかなか音楽にならず歯がゆいですからね。

 ピアノのとっかかりにおいてよく連弾をします。では、学習が進んでソナタアルバムぐらい弾けるようになってきたとして。この段階だと、ほとんど連弾の曲を弾く機会がない気がします。一人でバリバリ弾きこなしてしまうために、わざわざ面倒くさい連弾をする必要を感じないからかもしれません。
 だけれど二人で弾くと面白いんですよ。アンサンブルの楽しみ、つまり呼吸をあわせて弾くことと、単純に腕の本数が多いので表現が豊になることから来るのでしょうか。ただし、もともとオーケストラ用にあったものを連弾用に編曲したものが多いのも事実。連弾専用に作られたものと比べるとちょっと違うかなぁ、という感じがしないでもない。作曲家も連弾用に書くよりも二台ピアノを書いてしまうみたい。まぁファーストとセカンドがぶつかったり交錯する危険性がないので、割合楽に書けるためでしょう。

 というようなことが、連弾の曲を書き始めてから嫌というほどわかりました。とにかく手に関しての制約が多く、作っていてアレはだめ、コレはだめ、という具合。ただ、それらを廃しながら作った甲斐があって連弾らしい曲になりました。

diary031130.mid / MIDI

ピアノ連弾「二人のソナチネ」

 題未定。どうも作曲家に軽んじられているような気がしてならない練習曲。はたしてこの「二人のソナチネ」はどうでしょうか、みなさまのお気に入りの一曲になれば良いのですけれど。

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