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03.12.02(Tue) 脱力の技術
 脱力。これはピアノに欠かせない技術ですが、言葉にしようとするとなかなか難しい。

 十一月の半ばに新しいコンピュータが来てからいきなり壊れたり、また来てからも設定を一から見直したりと、なかなか大変だったのです。もちろんコンピュータだけに関わって生きているわけではありません、日々の生活もあるし、それに作曲だってしたい。順番的には作曲がどうしても一番最後になってしまうのです。まぁ、一番最後としましたが僕の中で実は重要度が一番高かったりするので、睡眠時間を思いっきり削って打ち込むはめに。眠いながらも楽しい、それでいて苦しい時間です。

 ピアノを前にして脱力しながら打鍵すると、部屋いっぱいに広がる音。深夜なのでさほど大きな音を出すわけにはいきませんが、それでも十二分。連弾の曲を書いていて、もう一つのパートの響きを頭で想像しながら五線に向かいます。そして時折、音がわからなくなったり、印象を確かめるためにまたピアノを弾く。この繰り返し。こういう作業を何夜も繰り返し、連弾「二人のソナチネ」は先月末日に終止線を書き入れ一応の完成を見たのです。

 一夜明ければコンピュータ上には完成された曲。いくつ作ったかわからないほどたくさん曲を書きましたが、いつでも作品の完成は感動出来ます。あぁ、もう完成したんだ、終わったんだとほっとする。

 ほっとする、っていうことは脱力です。つまり、えーっとですね、またしても作曲が終わった後に脱力しすぎて、力が抜けすぎて放心してしまい、何もせぬまま一日終わってしまったということ。

 上手な脱力、これはピアノに欠かせない技術なのですよ。ね、恥ずかしくて言葉にしようとするとなかなか難しいでしょ。

diary031130.mid / MIDI

ピアノ連弾「二人のソナチネ」

 掲示期間が短かったので再掲。予定が立て込んでいたのに大曲を書いてしまったので、かなり脱力してしまいました。作曲の終盤は集中力が通常の何倍も増すので、その反動が大きいのかもしれません。今回は半徹が続きましたから尚更でしょう。

03.12.04(Thu) 手書きとコンピュータの浄書
 コンピュータで楽譜を作るというと簡単そうに聞こえるのですけれど、実際にやってみるとそれほど楽な作業ではないのにすぐ気づきます。作曲家は楽譜について全て知っていると思われがちですけれど、実は楽譜を書くルールについてあまり知らないですし、そんなルールがあることすら知られていません。
 音楽大学に行って作曲を専攻していたとしても、まず楽譜について殆ど何も学ばないのです。もちろん楽語(アンダンテとかアレグロなど)は学ぶでしょうし、楽語辞典を常備している人もいるでしょう。それでは楽譜の正しい書き方、ルールについてはどうでしょう。かなりあやふやで、殆どの場合見るに耐えない楽譜になります。

 アンダンテはどこに書きますか。いきなり問われると普段見慣れている楽譜なハズなのに、正確な位置は思い出せないでしょう。ではタイの向きはどちらでしょうか。これも迷いますね。そういう一つ一つの細かい作業をコンピュータが全て自動でやってくれたら良いのですけれど、殆どやってくれません。どちらかというと融通が利かないことの方が多いのです。それ故に人間が手作業でいちいちやらなければならないのですが、人間自体もよくわかっていないからさあ大変。浄書ソフトを手にいれたものの、見栄えのしない楽譜が続出です。
 ワープロは随分進化して、たとえばぶら下がり処理など自動でやってくれます。そういう処理はまだまだ浄書ソフトでは無理なよう。

Finale

 僕が使っている浄書ソフト。聞いた話ではこのソフトは基本設計が古く、家を増改築するようにソフトの増改築をしていて、かなり無理があるそう。そうはいっても使い慣れたソフト、もう十年近くも使っていますからなかなか他に乗り換えられません。

Sibelius

 作曲家の名を冠した浄書ソフト。後発なのでいろいろ使いやすいに違いない。こちらも聞いたところによると、音を入力した状態が普通の楽譜に近い状態らしい。国内販売代理店がヤマハでイマイチ信用して良いのかわからないのです。売れないと簡単に切られそうだし、これだけフィナーレの勢力が強いところでやっていけるのか心配。デモ版程度なら使ってもいいかなぁ、でもフィナーレはいちいち面倒だし。

※ピアノ連弾「二人のソナチネ」はただ今浄書中です。加筆と補正を同時にやりながらなので、時間がかかっています。もうしばらくお待ち下さい。この曲のMIDIはPDFコーナーに移動しました。

03.12.05(Fri) 手書きの作曲、DTMの作曲
 昨日浄書の話をしたので、今日はそれに関連してDTM。DTMはDeskTopMusicの頭文字を取った略語です。楽器メーカーのローランドが一番始めに言いだしたのだと記憶しています。

 作曲は天才だけに与えられた行為ではなく、誰にでも可能性があります。その可能性をぐっと身近にしてくれたのがコンピュータでしょう。楽器を弾けなくても楽しめるし、一人では到底演奏不可能な大編成だってへっちゃらです。難しいショパンの曲だって、手作業で一音一音入れていけば生演奏顔負けに。
 ここで一つ問題があるのです。作曲の敷居は確かに低くなりましたし、誰にでも簡単に曲が作れます。ところがコンピュータに多くをまかせてよって、肝心の曲の事について殆ど関心を払わなくなってしまう。

 例えば、バイオリン。低音はG線ですからそれより低い音は出ないハズですが、DTMをしていると平気で音が出せてしまったり、一人では出せない和音を平気で書いてしまう。こういう初歩的なミスが枚挙に遑(いとま)がありません。これらは従来紙で作曲していた人達にはごくごく当たり前のように知っている事ですが、DTMで作曲をしているとないがしろにされているような気がします。
 音の厚さ薄さ。本来音の厚さ薄さというのは単純にfやpにすれば良いというものではありません。単純なところでは楽器を多くしたり少なくすれば音量はどうにかなるように思えます。でももっと考えれば、音の緊張度で作るならば和音を転回させたり、旋律線を反行形にしたり、緊張度の高い和音を使うでしょう。これらはたくさん楽譜を見て研究したり、和声学を正しく学ぶ(正しく学ばないと、ただの練習問題になってしまい楽曲にまったく生かせない)ことで身に付きます。でも、DTMでは分厚い音を探すこと、エフェクトをかけることで済ませてしまうでしょう。
 殆ど演奏不可能な奏法。フルートのC#のトリルなどはよく考えないとおっかない。普通トリルキーの事を考慮にいれて書きますが、DTMでは何の違和感もなく鳴りますからね。

 仮に生楽器ではなく全てシンセの音色だとします。この場合上記のようなことは関係ありません。しかし、フレージングやアーティキュレーションは考えないといけません。これはDTMにも必要です。人間が演奏したとは思えないようなベタ打ちで良いのであれば、コンピュータはお手のもの。しかしここに人間らしさを求めるのであれば、仮に打ち込みであってもフレージングやアーティキュレーションに気を配らなければならないのは自明の理。
 実際にどうやったら人間らしい演奏になるのか。これは生楽器を聞き込んだり注意深く演奏しない限り身に付きません。生楽器を演奏している人にしても、フレージングやアーティキュレーションに関心を持たない人もいるのです。

 DTMは生ではないからダメだ、と言っているのではありません。音楽制作現場の九割以上(もっと上でしょうか)はDTMによって作られています。この場合はオーケストラの代用品ではなく、始めからDTMらしい音楽作りをしなければならないのです。
 多くの場合、五線に書いた楽譜を生音にすると想像よりも良く鳴ります。それは頭の中で響きまで細かく計算に入れて作っているからでしょう。ですがDTMで作ったという作品を生で鳴らした場合、手書きの場合とは逆に悲惨な結果が見えるような気がします。
 機械の音は現時点で生音には到底勝ち得ません。クライアントもDTMなら安価で良い、オーケストラの代用になるという安直な姿勢は見直しましょう。DTMにはDTMらしい楽曲があり、それ以上を求めるのは間違っています。生音を欲しいのならば楽器の代用としてDTMを選ぶのではなく、始めから生音の予算を組み、スタジオ録音を配慮するべきでしょう。

 手で五線に向かうにせよ、コンピュータでDTMするにせよ、作曲をすることに変わりはありません。音楽を良く聞き、良い曲を研究し、演奏者のことを考えることが大切なのです。

Roland=EDIROL=

 僕が始めてDTMに興味を持ったのは、FM音源ボードを親に買ってもらってから。始めの一年ぐらいは全く曲にならなかったなぁ。
 今作曲をしている人の多くは曲そのものに目を向けず、音源にだけ注意を払っているような気がしてなりません。ネット上によくあるオリジナル音楽サイトも、そのような傾向にあるようです。
 サンプリング技術の発達による奇形的な作曲法が横行してしまい、生楽器での楽曲制作を依頼しても安心な、本当に力をもった作曲家が育ちにくい土壌になっているのかもしれません。

03.12.08(Mon) 作曲家の本気度と聞き手の選択
 当たり前のことですが作曲家は曲を書きます。しかし、その曲を書く姿勢は人それぞれ。作曲で収入を得ているから作曲家である、ということではなく、その人の中でどれだけの比重で作曲が占められているかが作曲家か否かだと思います。だから作曲家とは言いつつも別業に勤しむ名ばかりの人もいますし、アイブズのように保険会社を設立し経営に追われながらも作曲活動に時間を割き名を成した人もいるのです。

 作曲の好きな人がいて「休日に時間が出来たから作曲でもしてみようかな」、と思い立ったとします。でも、アイディアもモチベーションもありません。たまたま時間が出来たから曲を書こうかな、という気分になっただけです。この場合、ほとんど曲を書けるとは思えません。五線紙といつまでもにらめっこし、ピアノの上で指は止まったまま、いたずらに時間を浪費してしまうでしょう。
 もう一人作曲の好きな人がいたとします。めちゃくちゃ忙しいけれどもアイディアにあふれ、どうしても書かなくちゃならないと強いモチベーションを持っています。この人はまず間違いなく忙しい合間をぬって、睡眠時間や昼休みを削ってでも作曲をするに違いありません。

 曲を書こうと思うならば、まず作曲に対しての姿勢が大切なのです。経験の上で言わせていただくと、中途半端な思いで作曲をすると中途半端な曲にしかなりません。暇だから作曲をしようとか、格好いいから作曲をしてみようかな、なんて浮ついた気持ちだとろくでもない曲になるでしょう。

 聞き手との真剣勝負、それが作曲です。よく鍛えた真剣はよく斬れますが、なまくら刀や竹光では斬れません。作曲家は聞き手に対してこの曲はこれこれこうであると、心と頭の両方に斬りつけていきます。成功すれば心の琴線を斬り涙腺をうるうるさせることが出来るかもしれません、頭に斬りつければ一日中ぐるぐるさせることも出来るでしょう。しかし、失敗すれば作曲者に遠慮なく斬りつけてきます、もう聞きたくないという無慈悲な言葉になることも十分に予想し得るところ。聞き手はいつも辛辣です。
 だから作曲家は常に本気で曲を書かねばなりません。そこに甘えや妥協は一切ありません、真剣勝負だからです。相手が真剣で向かってくるのに、竹光で勝負をする馬鹿はいないでしょう。もしいるとしたら自分に驕っているとしか言いようがありません。聞き手はそんなに甘くはなく、斬り殺されても文句一つ言えませんね。練習曲だから、始めて使う楽器だから、子ども用だから、なんて言い訳は一切通用しません。聞き手は作曲家の本気度を見抜いてしまいます。一度手抜きを見抜かれたならば、次を手にしてもらえる確率はぐっと減るでしょう。

 クラシックにおいて聞き手不在の曲が数多く作られた時代がありましたけれど、そんなエゴイスティックな姿勢であってはいけないと思うのです。人のために喜ばれる曲を書く、これが正しいでしょう。作曲家も一人の聞き手ですから、本人すら聞きたくないような曲を人に提示するのはどうかと思うのです。やっぱりこの人の曲は聴いてみたい、と思わせるような曲を書かねばなりません。
 曲を書くのは人に聴かせる・演奏させるため、という高慢で独りよがりなものではなく、聞き手・演奏者に自分の曲を選択していただく。というのがあるべき姿だと僕は思います。星の数ほどある曲の中から自分の曲を選んでいただけたら、それだけでもう喜ばしいことですし、お気に入りにしていただければ僥倖というもの。そのために作曲家はどんな曲にでも常に本気で取り組まなければならないのです。

音楽トップ100

Amazon.co.jpより

 これはアマゾンの売り上げトップ100ですけれど、果たして十年後二十年後に覚えていられる曲がいくつあるのでしょう。作り手の方向性などがあるので一概には言えませんが、きちんと聞き手を向いている曲は少ないように思えます。好きだから曲を書く・歌いたいから歌うという作り手のエゴ丸出しの曲よりも、きちんと聞き手に向けて伝わるような曲でなければいけません。もちろん聴衆への迎合とは違いますよ、作り手の音楽的目標点と聞き手の嗜好(指向)性が一致するのが理想でしょうか。
 今日の日記は某掲示板での書き込みがきっかけになっています。さすがに掲示板にはこれだけの分量は無理なので、こちらで不足分を書きました。

03.12.11(Thu) 曲について作曲前後での感想
 いくつものアイディアの中からより分け、イメージを膨らませ、構築し、一つの形として仕上げる作曲。書いている時と書き終わった後で印象がまったく違うことがあります

 作曲者以外の人は完成された楽譜を手にします。でも作曲はしていないので、どのようにして作られたかは作曲家本人しか知りません。胃に穴を開けるような思いをして書いている曲もあれば、あれよあれよという内に出来上がってしまった曲もあるでしょう。
 モーツァルトは胃が痛くなるようなことに無縁だったかもしれません。ベートーヴェンは胃痛を友にしていたでしょう。そして二人の出来上がった楽譜を見れば、どちらも完成度は高いのです。曲を書く過程こそ違えど密度は一緒。

 全ての作曲家がまったく同じ工程を経て作曲をしているかというと、モーツァルトとベートーヴェンの例を見ても違います。実際に作曲をしてみると、モーツァルトのように着想を得てから練り上げるのにあっと言う間という時もありますし、ベートーヴェンのように延々と素材の厳選から構築まで黙々とこなす時も。どちらが良いか悪いかということではなく、そういう方法もあるんだということ。

 今回のピアノ連弾曲「二人のソナチネ」、第一主題はかなり楽に書きました。鼻歌スケッチでしたからね。それに較べて第二主題はなかなか決まらずにぐずぐずとしてこりゃ無理かな、と思い始めたときに着想を得て、そこから一気に終止線へ持っていったのです。書き終わったときにはさほど大した曲ではないな、という感想でした。
 一気に書く曲の場合、曲そのものが持つ力に助けられてかき上げることになります。だから、作曲者がいろいろ考えているというよりも、何かに憑依されたように曲を書いているような気すらするのです。そんな感じなので、見返した時には曲がそもそも持っている力に気づかされ驚愕といった次第。

 ただし、憑かれたように作曲している時には速書きなので、音の細かいミスがたくさんあるのです。それを修正しながら、あぁここはこんな風になっているんだ、すごいなー、とか他人事のように思ったりして。いざ浄書をする段階になってみるといろいろ問題が山積していて、もう放り投げたいぐらいでした。実のところ作曲にかかった時間の三倍か四倍ぐらい修正と加筆に充てています。
 結局のところ全部自分で書いているので、どう書こうが後始末は自分で付けなければいけないということ。

 
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ピアノ連弾曲「二人のソナチネ」

 曲そのものの力っていうのは、主題が曲に及ぼす影響力のこと。これが強ければ強いほど曲の均整がとれて締まりが出てきます。
 いやー、しかし今回はかなり胃が痛くなりました。始めはモーツァルト、後でベートーヴェン。おかげで徹夜と相成りました。そんな苦労がまったく感じられない、明るく、軽快な曲です。どうぞ楽しんで弾いてください。楽譜に手を加えたところがあるのでMIDIも更新しておきました。前のファイルと聞き較べると面白いかもしれません。

03.12.12(Fri) 紙とディスプレイの視認性
 メノモソでは楽譜をPDFファイルにて配信しています。これはとても優れたアプリケーションで、どんなアプリケーションで作ろうが、またどんな環境で見ようが、PDFビュアーさえ持っていれば作ったものと同じものが見られる優れもの。ビュアーにはアクロバットが使われることがほとんどでしょうが、アドビ以外からもいくつか出ているようです。

 PDFは確かに優秀です。しかしながら、これは楽譜を見ようとするとやっかい。もちろん僕が作ったものと寸分違わず見られます。何の問題もないように思えるかもしれません。でもこの状態でピアノを弾こうとすると結構大変なのです。

 昔と違ってノート型パソコンの性能はデスクトップに劣らぬものとなり、かつ価格も安くなりました。ですからファーストマシンがノートという人も決して珍しくはありませんし、住宅事情からノートを選ぶ人もいるぐらいです。
 これをグランドピアノに乗っけてあげると譜面代わりになりますね。でも、紙の楽譜のようにはいかないのです。

 紙であれば全体を見渡すことは造作ありません。必要に応じて指番号を手書きで入れることもあるでしょう。これがPDF楽譜だとそう簡単にはいかないのです。
 まず問題になるのはコンピュータ画面の大きさ。画面が大きけば大きいほどよいのですけれど、ノートだとそうそう大きいサイズには出来ません。なぜならノートの意味がなくなるからです。大きな画面でやりたい人は21インチのディスプレーなどが欲しいでしょうから、必然的にデスクトップになりますね。ノートの利点はその小ささ、携帯性にあるので、大きくするわけにはいかないのです。すると、譜面一ページがディスプレイにきちんと収まらず、スクロールさせなければならないでしょう。それに、二ページを表示させようと思ったら、今度は楽譜のサイズが小さくなりすぎて見られたものではありません。
 指番号などの演奏解釈もPDFでは無理です。書き込めないことはありませんが、大変な労力がかかります。

 ですからPDFは便利なようで便利ではありません。画面上でちらっと見る分にはよいかもしれませんが、結局のところ紙の楽譜には何歩も及ばないのです。

 インターネットが普及しはじめたころ、紙のメディアは駆逐されるのでは、という論議がなされたことがありました。現在の状況から考えると、いかにネットが全家庭全オフィスに普及し一人一台コンピュータを持つことになっても、紙のメディアがこの世から消えることはないでしょう。

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ピアノ連弾曲「二人のソナチネ」

 浄書をコンピュータだけで行うとミスに気が付かないことが多い。コンピュータ上だと墨一色なので、手直しをしたかどうか一目でわかないのが原因です。プリントアウトしてペンで赤入れをし、ようやく間違いに気づくという次第。昨日ダウンロードされた方がおりましたら、古いファイルは破棄して新しいものに更新してください。
 尚、ページ数が多かったのでノンブルをページ下に入れておきました。助言を下さったおちゃめさん、どうもありがとうございます。

03.12.16(Tue) 指、フレーズ、ピアニスティック
 手について深く考えたことはなかったのだけれど、ショパンのエチュードを弾くてを休めて、まじまじと見つめて考えてしまいました。

 中指が高く、次いで薬指、人差し指、小指、親指。もしフレーズの途中で指のポジションを変えるとしたならば、中指を支点にして変えるのがスムーズなのは中指が長いためでしょう。中指をブリッジにしてあげると具合がよい事が多いです。特に、FisやBなど黒鍵を中指に当ててそこから左右に順次進行すると実にスムーズ。
 もう一つの支点は親指と小指で、これはローリングアタックの際に使います。指で鍵盤を弾くというよりも、手の甲(手首)を左右に回転させて弾きます。その支点が親指と小指ということです。
 他にもいろいろ支点のことについて考えたのですが、文章だけで説明出来るのはこれが限度。

 次に考えたのは指と指との距離。人差し指から薬指までは開き具合がほとんど同じですから、押せる度数と移動距離もほぼ同じ。小指も同じ距離だけ開くには開くのですけれど、人差し指−中指、中指−薬指ほどの距離は弾けません。もっとも指が開くのは親指−人差し指です。
 右手で言えば、ドソラシドは弾きやすいですけれど、それよりはドレミファドを弾くのは難しい。もちろん後者ではファで親指に変えれば楽ですけれど。ドレミファド、レミファソレ、ミファソラミと指を変えずに一気に弾こうとすると五度のところが弾きづらいですね。

 これだけのことですが、ここから導き出されることは何か考えるとピアニスティックについての断片が見えてきます。つまりピアノ曲のフレーズはかなりの部分が手に左右されるということ。ピアノは指で打鍵することによって音が鳴りますから、手の形に大きく左右されるのです。
 逆説的かもしれませんが、ピアノ曲にはピアノ曲らしい音の形があって、それに基づいた曲作りが必要なのかもしれません。ピアノ曲らしい発想の基に曲を書くということでしょうか。

 ショパンのエチュード(エチュードに限らないのですが)は、こういう発想の基に考えられています。手の大きさと重力奏法を知り抜いているから書ける曲なのです。これこそ真のピアニスティックでしょう。
 しかしながら、ピアニスティックという言葉は間違った一人歩きをしているような気がします。曰く、指が速く動くような曲だから、装飾音符がショパンぽいから、だからピアニスティックである。これについてみなさんどう思われますか?

ショパン・十二の練習曲

Amazon.co.jpより

この録音はポリーニの示したピアニスティックへの解答でしょう。

03.12.19(Fri) ピアニスティックに向けて
 ベッドの上で楽譜を読みながら眠りにつくことが多い。音楽好きの人なら一度や二度やったことがあるでしょう。しかし、よく熟知していない曲だと書かれた音の細部まで捉えきれず、ベッドから抜け出してピアノに向かうこともしばしば。

 譜面を見ながら想像している音と、ピアノで出した音。これが異なることがよくあるのです。いや、響きはそう大きく外すことはないのですが、調性がまったく違っていたり。これは僕に絶対音感が備わっておらず、相対音感でどうにか音を捉えているからに他ならないのです。音楽をやる上でどうしても絶対音感が必要ということはなく、きちんと身に付いていれば相対音感でもかまいません。オーケストラによっては基準音Aが440ではないところすらあるので、相対音感のある人は耳が気持ち悪く感じないのかなー、と思いますからね。相対音感の人にはあまり関係のない話でしょう。
 ただ、相対音感だとどうしてもこの調性ではないといけない、という繊細な感覚が欠けているような気もします。好きな調性はもちろんあって頭に思い浮かぶ旋律もピアノに向かえばその調性になっているので、僕にもうっすらと絶対音感があるのでしょう。

 一番やっかいなのは、頭で鳴った旋律が実際ピアノに向かったら弾きにくかったという場合。ピアニスティックということを考えなければ問題はないのですけれど、一度ピアニスティックについて考えてしまうと弾き易さはピアニスト最大の問題になる。調性で言えばC-durにはC-durに向いたフレーズがあり、Cis-durにはCis-durに向いたフレーズがあるのです。ただ半音移調すればいいや、という単純な問題ではありません。
 相対音感は頭で思い浮かべたのをどこの調でも同じものとして捉えます。弾きやすかろうが弾きにくかろうが、旋律としてはどれも正しい。だから本当は弾きにくくて仕方がない調だとしても、頭にあるうちはわからないのです。ピアノで鳴らしてはじめて弾きにくいとわかる。絶対音感を持つ人は頭にある旋律と実際の鍵盤とが完全一致していますから、旋律を思い浮かべた瞬間に鍵盤と指との感覚、つまり弾き易さを考えられるハズ。もっとも、僕には絶対音感がないのでこれは想像にすぎないのですけれど。
 相対音感を持つ人は一度調性を決定し、その上で旋律・指の形・鍵盤とをイメージしながら五線紙に向かわなければいけないのかもしれません。もしくはピアノの前で五線とつき合わせながら書くか。感覚を得るまで大変時間がかかるかもしれませんが、慣れればそう大したことではないような気もします。そろばんをする人が、暗算の時にそろばんをイメージしながら指だけ動かす感じでしょうか。まぁ、どちらの感覚も僕にはないので想像するより他はないのですけれど。

バラード・スケルツォ / ショパン

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 風邪を引いてしまいピアノに向かえず、ずっとショパンの楽譜を見ながらCDを聞いています。

03.12.21(Sun) クリスマスソングについて考える(タイミングの話)
 通勤通学で電車を利用している人なら、電車一本と二本の差を痛感したことがあるかもしれません。朝はいつまででもベットの中にいたいのが人の常、おかげで駅まで走る羽目になります。駅までの道を走っていると乗るべき電車が駅に向かっていく、走れば何とか間に合うかもしれない。で、息を切らしてホームに着いてみればちょうど電車の扉がしまったところ、なんともやりきれない。ひょっとしたら間に合ったかもしれないのにタイミングが悪かったね、という話です。

 さて。あと何日かでクリスマスがやって来ます。敬虔なクリスチャンでもなければ信仰厚い仏教徒でもない日本人ですから、まぁ何でもアリでお祭りにしてしまいます。すると町にクリスマスソングが大流行、かく言う僕もやむにやまれぬ事情でクリスマスソングを作ることが多いのです。
 クリスマスソングはタイミングが一番重要になってきます。クリスマスを過ぎたら一年間またお蔵入りになってしまうから仕方がありません。

 良い音楽ならば一度だけではなく二度三度、もっと欲張って一生聞いていたい。しかしながら、季節ものの音楽はそういうわけにもいかないのです。曰く、タイミングが重要である。

 締め切りがある曲、たとえばコンペやコンテストのため、あるいは特定の演奏会用に作る場合。これはやぶさかではありません。何故なら永続的に使われる可能性があるからです。年間を通じていつでも使える、という意味ですよ。コンペやコンテストなどに受からなかったとしても、別の機会に使えるような気がします。
 しかしです、これがクリスマスソング、季節ものの曲ならば。その期間以外に使われることはあり得ません。もしクリスマスソングを真夏の青空の下で聞きたい、という人がいるならばよっぽどの物好きでしょう。またコッソリ聞いていて見つかったなら、好奇の目で見られること疑いありません。

 果たしてそのような恥ずかしい曲を作りたいか、と問われれば僕はノーです。まぁでも、クリスマスソングならば一度作りさえすれば毎年毎年引っ張り出されるので需要はあるのかな。でも、僕には何の感心もない、たった一度しか使われないイベントものの曲を書いてくれと言われたらちょっと考えてしまいます。音楽のあり方について大いに考えてしまう。つまり、音楽とは一度だけで使い捨てられるものじゃない、ということ。一度だけしか使われない曲ならば、おそらく良い曲にしようという意識よりは、せいぜい派手にやってやろうとこけおどしのものにしかならない気がしますしね。

 だからスポーツイベントなどの開会式の音楽などは、派手で仰々しい割にはあまり印象に残らないのかもしれません。使い捨てと割り切って作られたためでしょうか。中にはオリンピックの開会式のファンファーレのような印象に残るものもありますけど、それにしたって年がら年中聞きたいようなものじゃないでしょう。

 一度っきりの曲よりも、何度もの鑑賞に堪えられる曲。こちらにこそ重きをおきたいものです。

クリスマス

Amazon.co.jpより

アマゾンで「クリスマス」と検索をかけた結果がこれ、驚きの数字ですよ。しかし、ほとんど全てがこの一ヶ月しか聞かれず、かつクリスマスを過ぎたらまったく聞かれることがないという事実。音楽の一側面、消費されるためだけの曲作りを実感します。

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