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04.01.01(Thu) 新年の抱負
 あけましておめでとうございます。昨日は途中で掃除を投げ出してしまい今日に掃除を持ち越す羽目となり、とんだ元日を迎えました。

 昨年のクリスマスあたりでマックのハードディスクがクラッシュをし、日記更新が出来なくなっていました。浄書ソフト・フィナーレの設定もまだ何も手をつけておらず、まったく音楽をやる体勢になっていません。いろいろピアノ曲のヒントを掴んだところなので、曲を書きたくても書けない歯がゆい思いをしています。三が日でどうにかしたいもの。

 さて、今年のメノモソの目標ですが、昨年以上にピアノ練習曲に力を入れます。ピアニスティックに関してイメージするところがいくつもあり、それを具体的な形にしていきます。
 もう一点。メノモソを見に来てくれる人、あるいは友人知人に曲を見せると、すごい曲と言われることが多いのです。すごいと言われること自体は素直にうれしいのですけれど、すごいと言われるとどうすごいのか気になって仕方がありません。
 例えばです、スバルとトヨタの車を較べたとします。この時に、スバルの車はすごいと言われることが多く、トヨタは良い曲だと言われるような気がするのです。これは僕の個人的なスバルとトヨタのイメージじゃなく世間一般のイメージですよ。スバルはレガシーやインプレッサのイメージが強いと思うのですが、これは良い車というよりもすごい車なのです。バリバリ走ってしまうイメージでしょうか。トヨタ車のイメージはカローラやマークIIでしょう、それはすごい車というより良い車です。誰が乗っても違和感がなく、安心感がある車なのです。
 すごいというのは畏怖を感じさせるイメージ、と言っては大げさでしょう。でも、すごい車でもわかるように、普段から何度も聞きたいという感じではないかもしれません。対して良い曲と言ってもらえる曲は何度も繰り返して聞きたい、というニュアンスに感じます。ということから、僕としては多くの人に良い曲と言ってもらえるような、そんなステキな書きたい。これが今年の一番の目標です。

ラヴェル:ピアノ全集

amazon.co.jpより

 ラヴェルはすごく一フレーズの長い(息の長い)曲があります。現代では曲に色を付けるために短いフレーズで曲を構成し、体位法的に作る手法が優勢な気がします。もちろん短いフレーズ、長いフレーズの両方を書けなければいけないのだけれど、僕はどちらかというと短いフレーズで曲を書いています。
 短いフレーズで曲を書くと自然とひっ迫した曲になりがちで、すごいと言われがちな曲になるような気がするのです。だから、今年は長いフレーズを書くように発想の転換をします。出来るかな、いや弱気にならずどうにかする。

2812 〜ひとりぼっちの発表会〜

 ピアノ弾きに弾いてもらえるような曲、末永く愛されるような曲、ピアニスティックな曲。こういうのを書かないと、一生懸命ピアノをしている人に申し訳なくて仕方がありません。Ekkoさんのようにピアノに一生懸命な人に喜んでもらえるよう、今年も頑張りますのでメノモソ読者のみなさん、ピアニストのみなさん、よろしくお願いいたします。

04.01.04(Sun) 楽譜というメディア
 音楽の楽しみの一つに演奏家の聞き比べがあります、例えばショパンのエチュードの聞き比べといったように。これが可能なのは偏に楽譜のおかげですが、楽譜のおかげで一つの決定的な解釈ではなくいくつもの解釈が出てくることになるのです。そう、正しい解釈ではなく、間違った解釈ということも十分にあり得ること。その真贋は私たち自身が見極めなければなりません。

 バッハ以前はネウマ譜と呼ばれる四線譜、さらに遡ると音程の上下が△や○によって表される動機譜(エクフォネティック譜)と呼ばれるものがありました。その時代は器楽優位の時代ではなく声楽優位の時代でしたから、音楽はおそらく口伝で手取り足取り伝えられるものだったのかもしれません。ですから、そんなに細かく曲を書き表す必要がなかったのでしょう。
 しかし、声楽から器楽に興味が移ってくると、細かいリズムや音の高さを示す必要性に迫られてきます。始めは声楽のパートを楽器に置き換えるだけだったのが、器楽は器楽として演奏されるようになったのでしょう。そこでやっと五線譜の登場となったのです。
 バッハはきちんと五線に記していたのですが、その時期には旋律と通奏低音と呼ばれるコードのようなものしか書いていない楽譜もたくさんありました。演奏家イコール作曲家という時代だったのです。そんな時代ですから、バッハの曲でさえフレーズの書き入れがないのは当然かもしれません。演奏家=作曲家ですからフレーズ感などごくごく当たり前の知識として持っていたのでしょう。

 さて、ここからが問題です。バッハの楽譜に当たるとして、何をもって正しい楽譜と為すか。いろいろな楽譜を見るとすぐにわかることなのですが、どれもこれも異なった解釈になっているのです。バッハの生きた時代には共通の知識として書き込まなかった(書き込む必要もなかった)ものはバッハの時代には有効ですが、現代のフレーズ感覚とはずれてしまっているのです。指番号からスラーの書き入れ、果ては装飾音符まで。そのために後世の校訂者によって、たとえ同じ人でもバッハ時代のさまざまな文献を発見したりしたために校訂年によって解釈が違ってきてしまいます。平均率クラヴィーア曲集にはバルトークが校訂している版があるなんて、ほとんどの人は知らないと思います。でもこれを手に入れてみてください、その拍子解釈に驚かずにはいられないでしょう。実拍子と記譜表記が違っているなんて、なかなか想像出来るものではありません。現代においてはおそらく拍子記号を変えてしまうであろうヘミオラを平気で使っています。

 作曲家が作曲家の頭の中だけでわかっている表現も問題になってくるでしょう。ピアノ曲においてフレーズには二つ意味があり、一つは指使い、もう一つは息(文字通りのフレーズ)ということです。ですから厳密な楽譜には二重フレーズで書かれているかもしれません。しかし、ここで指使いが校訂者によって変えられているとしたら、フレーズはまったく違うものになってしまうかも。他人による校訂以前に、作曲家は指使いのことはあんまり考えていないかもしれないし、その作曲家だけの指使いで書いているかもといった具合。例えばショパンは自分の頭では完全にわかっている音楽なのに、譜面に書かれている情報はごく一部に違いありません。演奏者がピアノの音色をショパンと同じぐらい理解していればわかるかもしれないけれど、でもそこまで細かいことなど書きようがないでしょうね。

 バッハのところで気づかれた方もいるかもしれませんが、音楽を演奏する人が知っているべき共通の知識というのがあります。つまりクラシックにおけるフレーズ感、テンポの揺らぎやダイナミクスの付け方なのですが、これらは知っているものだとして作曲家が書かない場合も。バッハ時代には書き込みしていないですが、ドビュッシーに至るとほとんど全音にアーティキュレーションが書き込まれています。
 ここで僕は考えてしまうのです、ドビュッシーの時代になると書き込みが多くなるのは何故なのかを。1900年代にはもう演奏家=作曲家ではあり得ず、演奏家と作曲家との間で共通の音楽知識がなくなってしまったから、書き込みせざるを得なくなってしまったのか。それとも作曲家が進みすぎてしまって演奏家と音楽認識が乖離してしまい、書かないと不安で不安で仕方がなくなってしまったからか。いずれにせよここまで書き込みがしてあるならば、校訂者は何もすることがありませんね。

 近代五線譜はかなり完成度が高いメディアなのは確かで、音の高さも、長さも、強さも、すべてが書き込まれています。その実、書き込まれた全てがとても曖昧なものなのです。その曖昧なものを一掃しようと、トータルセリーにまで行き着きました。ですが、音楽を人間が完全に支配することなど不可能で、そのアンチテーゼとしてジョン=ケージの偶然性の音楽に行き、その後の勘違いを経て、わかりやすいネオ・クラシックなどいうところに落ち着きました。つまり、わかりやすいクラシックやミニマルなどのことです。

 楽譜というメディアは未熟で未完成ですが、その未完成さ故にさまざまな解釈が生まれることになるのかもしれません。楽譜に当たる時には、あなた自身の解釈を是非楽譜に書き加えてください。つねに楽譜を疑ってかかるぐらいがちょうど良い、疑いを一つ一つ晴らしていくことがあなたにとって完全な楽譜となるでしょう。

楽譜の選び方

国立楽器より

 バッハに限らず、ショパンだろうがバルトークだろうが、自分の解釈を楽譜に反映させてください。先にも述べたように、楽譜のpやfにしたって相対的なものでしかないし、テンポなどは全てに細かく書き入れることは不可能とさえ思います。極端なことを言えば、曲中一小節たりと同じテンポとダイナミクスの場所はないのです。
 絶対的な演奏などありはせず、十人十色、百人百様の演奏解釈がある。だからこそ音楽は面白い。

04.01.09(Fri) 技術発展と音楽
 私たちを取り巻く環境は日々進歩しています。こんな寒い夜に暖かく暮らせるのも、こうしてコンピュータで文章を見られるのも、みんな技術発展のおかげ。今こうして文章を書いている間にも、部屋ではオーディオから音楽が流れてきます。演奏家もいないのに音楽を聴けるのは、そんなに古くからではありません。エジソンが蓄音機を発明したのが1877年のことですから百年ちょっと。それまで音楽は演奏家が演奏して、始めて耳に出来るもだったのです。この百年ちょっとの間、技術革新によってレコードが生まれ、CDになり、さらにはネットで簡単に音楽が聞こえるようになりました。量的には確かに豊になりました、では質的にはどうなのでしょう。

 前回には楽譜の話をしました。グーテンベルグによる活版印刷の発展によって楽譜が大量に出回り、演奏家の作曲能力が落ちていったのです。しかしながら、量的には楽譜が出たことにより、後世の作曲家がバッハやベートーヴェンなどの過去の遺産から多くを学ぶことが出来るようになりました。もし活版技術の発展がなければ、これほど多くの作曲家は現れなかったでしょう。ですが、多くの勘違いした作曲家を生み出したのも事実。曲の何を見るかによって、作る曲はまったく異なったものになってしまうのです。

 楽器の技術改良も忘れてはなりません。バッハが生きた時代にピアノはありましたけれど、当時まだ未熟な楽器であるピアノの曲をバッハは書きませんでした。今日では多くのピアノ曲が世にあるのはご存じの通り。楽器奏者の中でもレパートリーに一番恵まれているのは間違いなくピアニストなのです。
 ピアノも技術革新の恩恵に預かった楽器の一つですから、友人知人にピアノ弾きの一人や二人いてもおかしくはないですね。しかし、それが正統なピアノを弾くかどうかはかなり怪しいところ。そう、質的な問題になってくるのです。

 ちょっと話題を変えます。日本の一般的な家庭、ここでの食事を考えてください。明治維新によって西洋文明が流入し、日本は欧化の一途をたどりました。和洋折衷というよりは和を捨てていく方法で。毎晩必ず和風料理が出てくる家がどれほどあるでしょう。
 毎日全ての料理が外食という人を除いて、料理人は一家に一人は必ずいます。その全てが料理上手とは限りません、親から子へ料理がきちんと伝わらなかったからです。子が大きくなって結婚して、そのまた子どもが料理をしようしたとき。親から子へその家の味の伝承はされずにねじ曲げられ、何世代もいくとついに断絶してしまうのです。
 それに本を読んだだけではなかなか料理は上手くならないのもご存じの通り。本は料理の本質を知っている人が読んだときにレパートリーが広がるもので、基礎がない人は料理の本を見たところでそれなりのものしか作れません。料理の本を出版する側もそれをわかっているので、簡単料理の本が多く出していますね。

 さて。楽譜の発達と普及によって、演奏家=作曲家という構図は成立しなくなりました。それでも尚、楽器の少なかった時代には演奏家がきちんと伝統的な奏法を伝授出来たので、質的に満足いくものだったでしょう。ところが楽器の普及によって一対一あるいは一対少数のレッスンは成り立たなくなってしまいました。すると伝統的な奏法は中途半端に伝授されることになり、その人が成長してさらに教える、教わった人がまた教える、どんどん伝統から乖離していく、という悪循環になってきます。
 楽器が身近になっていますから、独習でどうにかしようとする人も出てきます。本人は大まじめですが、何もかも間違っている場合もなきにしもあらず。指は動くかもしれませんが、正統とはほど遠いものになっているかもしれません。ハノンやチェルニー、ショパンのエチュードをバリバリ弾けてしまってもです。
 デジタルピアノもやっかいです。デジタルピアノはピアノを模したもので、ピアノとは似て異なるもの。ピアノをさわらずにデジタルピアノで鍵盤楽器を始めた人はデジタルピアノで満足してしまうかもしれません。でも、正統な曲を弾こうとしたら、音色の点、タッチの点で、どうしてもダメなのです。ダメなのですがここであれこれ述べたとしてもおそらく伝わらなでしょう、何故なら大抵の曲を弾けてしまい自分は正統だと思い込んでいるからです。

 奏者はいくらでもいます。そう、量的にはたくさん、それこそ星の数ほど。これは技術発達のおかげ、あるいは技術発達のせい。確かに私たちの生活は豊かになりました、しかし質的にはどうなんでしょうね。僕自身も含めて考えてしまいます。

平均律クラヴィーア曲集

Amazon.co.jpより

 死後も正統か否かの論議が耐えない作曲家、グレン=グールド。個人的な趣味で言えばあまり好きではないグールドですが、こういう解釈も可能性としてアリでしょう。何故ならバッハには書き込みがほとんどなく、解釈の幅が広いからです。グールドはデタラメではなくきちんとアナリーゼしているからこそ、一曲まるまるの統一性が取れるのでしょう。ま、平均律を聞くのならばリヒテルの方が好きです。

04.01.11(Sun) ヨーグルトで知る正統性
 昨年末にある方からカスピ海ヨーグルトの種を頂きました。頂いたとき、実は大変困ったことになったなと思ったのです。人からものを頂くのですから感謝こそすれ困るとは何事かとお叱りもあるでしょう。なぜ困ったことになったかは、数年前にさかのぼってお話しなければなりません。

 それはカスピ海ヨーグルトが世間で騒がれ始めた時期で、僕も風聞でカスピ海ヨーグルトの噂は聞いていました。何でも牛乳に種を入れてしばらくするとヨーグルトになるらしい、まぁその程度の噂です。どういうきっかけだったかは忘れましたけれど、人様からカスピ海ヨーグルトの種を頂きました。喜んで試してみたものの、どうやっても酸っぱい。口に合わない。友人も同じ人からカスピ海ヨーグルトを分けてもらったそうで感想を聞いてみると、僕と同じように酸っぱくて、口に合わないとのこと。自然とカスピ海ヨーグルトを作らなくなりました。

 そんな印象がありましたから、カスピ海ヨーグルトを頂き困ったのです。でも人様から頂いたものですから、試してみないことには。で、恐る恐る牛乳に種を入れた翌日の朝。スプーンですくって口に入れると、これが美味しいこと。僕はカスピ海ヨーグルトを完全に誤解していたのです。普段口にしているヨーグルトと遜色ない、いやそれよりもはるかに美味しいヨーグルト。それから毎朝楽しみに食べているのです。
 この美味しさを是非よそ様にもと、幾人かに種分けしました。その人たちに会うと異口同音に、もうヨーグルトを買うなんて馬鹿馬鹿しくなる、美味しすぎる、との声が返ってきます。しかしながら、一人だけ口に合わなかったと言った人がいたのです。
 ひょっとして作り方を誤っているのではと、作り方を復唱してもらいました。ですがどこもおかしくない、僕と変わらぬ方法で作っているのです。牛乳が悪いのか、それとも種の保存状態が悪くて変質してしまったのか。大いに悩んでいたのですが、彼女は決定的なことを口にしたのです。

「私はいつもプチ・ダノンを食べている。他のは酸っぱくて食べられない」

 カスピ海ヨーグルトに出会うまでの僕の正統は、ブルガリアとかナチュレです。例外はありません。数年前に一度カスピ海ヨーグルト体験をしていましたが、それは変質したまがい物でした。だからどうしたって受け付けません。ところが去年頂いたカスピ海ヨーグルトはそれまでのヨーグルト感を覆すほどの本物ヨーグルト、もう他のヨーグルトは受け付けません。今ではこれが僕にとっての正統なのです。
 しかしながら。プチ・ダノンを食べ続け、他はヨーグルトではないと言い切る友人。彼女にとっての正統はプチ・ダノンただ一つ。こんな甘々の子供っぽいものを信奉していますから、カスピヨーグルトはおろかブルガリアやナチュレのような普通のヨーグルトはまがい物なのです。

 一度正統を知ってしまえば、とは思います。しかし、正統が本当に正統なのかどうかはその人自身によるのかもしれません。それまでの知識や経験が邪魔をして目が曇っていないとも限らないのです。
 ヨーグルトに文章を費やしてしまいましたが、これを音楽に当てはめてください。たとえばそれは作曲であったり、ピアノ演奏法であったりと様々。風評などは当てにしてはならず、すべて自分自身で考えなければいけないのはもうおわかりでしょう。プチ・ダノンを唯一絶対の正統だと誤解するように、音楽でも間違いを正統だと思いこんでいるかもしれませんよ。

平均律クラヴィーア曲集

Amazon.co.jpより

 昨日はグールドの平均律、今日はリヒテルの平均律。同じ平均律なのにこうも違うと困ってしまう。解釈は一つではなく十人十色、それにしたって違うよなぁ。リヒテルが正統だとしている人にはグールドの演奏は受け入れ難いかもしれませんが、どちらも正統なのです。

04.01.16(Fri) 私は素人だから
 音楽をやっている人と話をすると「私は素人だから」という言葉がよく出てきます。かなり上手に楽器を弾ける人や、ものすごい曲を書くような人だったとしても。謙遜の意味もあると思うのですが、この言葉を聞くと僕はちょっと考えてしまうのです。

 素人とプロの違いはと聞かれればお金をもらっているかいないか、と答えが返ってきますね。もちろんそれもあるでしょう。しかし今日、プロでもどうしようもない人はたくさんいるし、素人でもお金を出したくなるような人も。だからお金をもらっているかもらっていないかで素人かプロかを判断出来ません。素人でもインディーズでやっている人もいますし。金銭面で素人は限りなくプロ化していますし、逆にプロは精神面で限りなく素人化していることもあるのです。

 作り手と聞き手で考えてください、作り手の名前もここではおいておきましょう。ある場所に音楽が流れたとします、それはそれは良い演奏で是非演奏家の名前が知りたいと思ったとします。それがもしあなたが演奏もしくは作曲していて、良い曲・良い演奏と言ってもらえればうれしいですよね。逆にその演奏が酷い演奏だったとしたら、もうこの演奏は二度と聞きたくないとされても仕方がないことです。
 何が言いたいかというと、音楽を前にして素人とかプロとか、そんなことは一切関係がないということ。作り手がわからなければ素人でもプロでも関係なく、そこにあるのは良い音楽か否かという一点だけなのです。素人でも良い演奏であれば認められるし、プロでも失敗をすれば容赦なく批判されます。

 でははじめに戻ります。「私は素人だから」に続く言葉は?「私は素人だから、このぐらいやれば十分」でしょうか。本人の自己満足であるならばそれでかまわないでしょう、自分だけで楽しむのならば十分かもしれません。ただ、音楽は人に聴いてもらってこそ価値を持つもの。ピアノの練習をすれば人に聞いてもらいたくなるのが人情ですし、曲を作れば演奏してもらいたくなるのが人の常。もし人に聞かせるのでしたら「私は素人だから」なんていう発言は絶対にしてはいけません。聞き手には素人・プロなんて関係ありません、いい音楽を聴きたいだけなのですから。

 演奏をする人も作曲する人も、日頃から研鑽を積むこと。聴衆の前では「私は素人だから」という言い逃れなどまったく通用しませんよ。

7dream.com

 セブンイレブンに行ったらレジを打ち間違えられ、おまけにとんでもなく待たされ、挙げ句にアルバイトですから許してやってくださいと店員に言われました。お客はアルバイトだろうが店員だろうが関係ないことなんですよ、まったく。などと憤慨しながら今日の日記を思いついたのです。
 ネット上でもこの手の謙遜は多く見られます。謙遜するのは日本の美徳とも考えられるのですが、謙遜の裏側に言い訳が見え隠れしているような気がしてなりません。上手な人は謙遜などしなくても良いし、逆に未熟だと自認する人は言い訳などせずもっと頑張らないと。うぅぅ僕ももっと頑張らねば、すべては聞いてくださるみなさんのため、そしてバッハ前のため。

04.01.20(Tue) ピアノにおける運指と音楽性
 かなり長い時間悩んでいる問題に、運指が先か、音楽が先か、というのがあります。もっとわかりやすく言えば、指が先か、それとも頭が先か。もちろん同時に二つをすれば一番良いです、つまりピアノに向かいながら曲を書く。ただ、これをすると僕の場合はイメージがとても限定されてしまう。指が曲をつくってしまい、いつも同じような感じになってしまうのです。そうならないために。旋律を頭で浮かべてそれを逐一鍵盤で確かめ、拙ければ修正しながら曲を作る。時間はかかりますが確実な方法でしょう、時間はかかりますけどね。

 簡単な曲ならばこの方法で作れるようになってきました。旋律+伴奏のようなものであれば、時間をかけさえすればどうにかなります。しかし、ちょっと複雑になってくると途端に難しくなってきます。
 例えば。ドレミファソラシドを調を変えて弾くとします。C-Durの時は親指スタートでいきますね。でも黒鍵が主音の調であれば、人差し指スタートの方が弾きやすいハズ。つまり移調しただけで運指が違ってしまい、フレーズが左右されかねないのです。同じ調・同じ旋律でも、右手と左手では運指が違いますから、これもフレーズが違ってしまいます。

 今までまったく気にしなかったことなんですが、ピアニスティックを考えればこれらは由々しき事。つまり頭でイメージ出来たからこうしよう、ああしよう、なんて単純作業にはなり得ないのです。ゼクエンツ(同型反復)一つでも指を周到に考えなければ書けません。書いてしまうようではピアノ演奏者に失礼でしょう。

 二ヶ月ほどいろいろな作曲家の楽譜を見て音楽性と指使いについて考えていたのですが、一つ興味深いものがありました。バッハの平均律(24のプレリュードとフーガ)と、ショスタコービッチの24のプレリュードとフーガです。ショスタコービッチは交響曲でとても有名ですが、こんな曲を書いていることからもわかるように、バッハを相当に意識しています。譜面をピアノで弾かずに曲のみを聴くと、バッハ精神がひしひしと伝わってきます。しかし、一度譜面を見ながらピアノを弾こうとすると弾きにくいこと。頭の中だけで作った曲なのだろうな、という気がするのです。
 バッハの平均律は自身で演奏することを想定して作ったので指への配慮が伺えますが、ショスタコービッチのそれは弾き難く、演奏者を考えているか疑わしいところ。同じ精神で書いているのにも関わらず、それが奏者を想定しているか否かによって、指使いがずいぶんと変わってしまうのです。

 音楽の密度や精神の高さからいってももっと知られても良さそうなショスタコービッチのプレリュードとフーガ。ショスタコービッチがピアノ曲を書いているのを知っている人が少ないのは、運指による弾き辛さによるものだとしたら少々酷な気もします。でも、ピアニスティックについて考えられていない曲は、ピアニストによって毛嫌いされても仕方がないことなのかもしれません。

24のプレリュードとフーガ

Amazon.co.jpより

 ショスタコービッチはショパンコンクールの特別賞を取ったほどのピアノの腕前なのに、ピアニスティックについてあまり考えていないようです。音楽的な密度を上げようとすると運指がなおざりになり、運指を考えようとすると密度の高い曲が書きづらい。こういう矛盾というかジレンマを感じてしまいます。未だに良い方法が見つかりません。

04.01.24(Sat) 作曲の脳
 音楽を司る脳は右と言われています。左手の運動、空間構成なども同じく右脳。しかし、右脳だけ使っているかというと、そうではない気がします。作曲をしているときにCT検査してみればさぞ面白い結果が見られるのではないでしょうか。
 手慣れた作業としての作曲だといつも同じ脳を使っていると思うのですが、今回は指の事を特に留意しながらだったので頭がとても疲れた感じ。

 あるテレビ番組で暗算王のCT検査をする企画がありました。暗算王はそろばんの達人です。彼は普通の人が計算する脳と異なる部位、つまり空間把握や手を動かす脳を使っていました。これは頭の中にそろばんをイメージし、あたかもそろばんがあるかのように手を動かして計算するため。
 今回の曲作りにおいて、ほぼこれと同じ作業を頭の中でしていた気がします。頭にピアノをイメージして、空で鍵盤があるがごとく指を動かし、五線に書き入れる。とまぁ、こういう作業です。で、書いては心配なのですぐにピアノに向かって、また書き始めるという繰り返し。

 これまで曲作りにおいて特に難しいだろう部分が弾けるか弾けないか、指の形だけに気を付けていました。ピアノはほぼ音の確認のために、困ったときだけ使うという感じ。これだとフレーズと指位置がどう影響しているかわかりません。慣れればわかるのでしょうけれど、ちょっと先が見えません。暗算王のごとく頭に鍵盤が完璧に入っていて、指の形も実際にピアノに向かったときのように寸分違わず、という風にならないとダメかも。ある程度はわかるんですが、ちょっと込み入ったところになると不安で不安でしかたがありません。

 どうにか指の形とフレーズとを意識して作品を完成させましたが、それでもなお不安で仕方がないのです。手慣れた作業ではない、暗中模索状態からの作曲。相当に頭を使ったらしく本当にへとへとです。

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「同型反復」練習曲

 一聴しただけだと難しそうな感じだけれど、弾いてみると意外と弾けてしまう曲。という風になっていれば良いのですが。作曲者本人は難しくても音楽をわかってしまっているので弾けてしまいますが、ピアノ弾きのみなさんはどうなんでしょう。
 今日のところはMIDI掲示のみ、楽譜の浄書をお楽しみに。週末でどうにかするつもりです。ひょっとしたらタイトルを変えるかもしれません、その時はお知らせします。

04.01.26(Mon) 音並び、手の進行
 ピアノを弾いていてどこに意識が働くか。多くの人は指と答えるでしょう。指で打鍵し音を出しますからそれで正解です。もっと意識を高めると手首の位置が気になってきて、さらに深く考えると肘、肩、体、足と五体すべてを集中させないとピアノが弾けなくなるでしょう。普段は無意識のうちにやっているかもしれませんが、意識しだすととてつもなく奥深く感じられるのです。

 ある一音があったとして、次の一音にいくときの指の形、手の形、手首と肘の位置。譜面上ではただの音並びですが、ピアノを前にするとそこまで考えねばなりません。
 たとえばドレミファソを12345の運指で弾いたら、次に来るのは下方向。もちろんラやシ等上方向にも行けますけれど、同一フレーズで弾ききるには無理が生じます。下方向に進んでやれば、同一フレーズで難なく弾ききれる。
 手首の位置が決まらないと、指の位置が決まりません。ドを弾いてオクターブ上のドを15の指使いで弾こうとすると、上の度を弾いたときには手首が右回転します。これ以上は右回転しません。ではどうするかというと当然振り下ろすことになるので、手首が左回転します。これを上手に使うとショパンのOp.10-1エチュードみたいなことも可能でしょう。

 自分がピアノを弾くときにどうやって弾いているか、どうやったら弾きやすいかを、五線紙上で再現しなければならないのです。即興でピアノを弾く場合ならばこれらは簡単にクリア、なぜなら弾きやすいフレーズしか弾かないから。頭がピアノを弾くんじゃなくて、体がピアノを弾いていると言えばわかりやすいですね。
 きちんとピアノで弾くことを考えられた曲は指が鍵盤にカチッとはまります、まるでテトリスみたいに。しかしながらそういう曲は本当に少なく、ピアノ弾きは苦労することになるのです。ピアノ弾きが下手なのではなく、作曲家が下手なために上手く聞こえない。これは悲劇です。労多くして幸薄い曲はやっぱり弾く機会が減ってしまうでしょうし、そうなれば結果的に聞く機会も減ることになり、そのうち忘れ去られるかもしれません。

 ピアノ曲にはピアノを弾く喜びが必要で、どんなに曲が優れていてもそれがなければピアノ曲としてはどうなのでしょう。作曲家にはそうならないためにピアノを知る必要があり、ピアニストにはそれを楽譜上で見抜ける目が必要なのです。

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「隔たりのあるフレーズ」練習曲

 お待たせしました、楽譜の完成です。先日のMIDIから少し改訂しましたので、古いファイルをお持ちの方は破棄してください。タイトルも変えました。
 フレーズの練習にするためにフレーズとフレーズの間にギャップを設けています。二オクターブものギャップなのでアゴーギグをよく考えてください。また、同じフレーズでもギャップがない場所があるので、そこにも注意が必要です。ギャップがある部分と無い部分でのアゴーギグの違いを出せると良い演奏になるでしょう。

04.01.28(Wed) 人から見てどう感じるのか
 自分の曲を相手が見たり聞いたりしたときにどう感じるのか。作曲をやっている者ならば誰でも疑問に思うところです。

 例えばメノモソの場合、曲をアップしたとしても反応はほとんどありません。アップした日にカウンターが通常よりも多く回るのですが、ただそれだけです。なんだかさっぱり手応えがなくて困る、自分の曲が果たして評価されているのか、どう思われているのか不安で仕方がない、というのが正直ところ。
 以前のスタイルの日記を書いていた時には必ずと言って良いほど反応があり、手応えを感じ、それを元に次作へ繋げていきました。ですがメノモソが音楽サイト寄りになってからは、アップするたびに不安感に苛まれます。

 音楽を正当に評価する、というのは難しいことかもしれません。特にクラシックみたいな高尚な音楽に口を出すなど出来ない、とされているのは心情的によくわかります。
 もし仮に僕が三善晃さんのような力のある作曲家に正面切って何か意見できるか、と問われたらノーです。怖くてとても出来ません。でも三善晃さんも何か感想を言ってもらいたいのだろうな、とは思います。本人ではないので、ひょっとしたらそんなものを求めてはいないのかもしれませんけどね。
 本当はクラシックは高尚だなんて思ったことは全くなくて、好きだからやっているというのが一番。だから僕はクラシックのようなポピュラーのような、どっちつかずの曲になっているわけです。もしクラシックが他の音楽ジャンルより高尚だと思っている(思いたい、思いこんでいる?)ような演奏家や作曲家がいたら、きっと鼻持ちならないでしょう。

 そういえば学生時代に何度かコンクールに応募したことがありました。コンクールといってもそう大したものではなく、ローカルで小規模なものです。とはいえ舞台にきちんと上がり賞金も出る立派なもの。結果は三位や二位がほとんどで、一位になったことは一度たりとしてありませんでした。
 いつもいつも準備不足もいいところで、提出期限の一日前に書いたとか、二日で書き上げたとか、我ながら舐めているとしか言いようがありません。そんな舐めきった曲でも一応は入選しています。これをどう感じれば良いのか。自分の力を素直に喜ぶべきなのか、それともコンクールのレベルの低さを嘆くべきなのか、あるいは審査そのものを疑うのか。結局のところ審査の基準なんて人それぞれ違うわけで、どれを持って評価とすべきか難しい。後で講評などがあればもっと透明性があって良いかもしれないですが、真相は闇の中。
 それもこれも、人によって価値や基準がまったく違うためなのです。

 そんな一位二位なんて僕にはどうでも良いことで、落選しても全然落ち込んだりしません。それよりも聞いてくれる、見てくれる人が喜んでくれれば十分。ま、欲を言えばその人のライブラリに入るようであれば完璧です。
 音楽に限らず、どの部分が好きか、って伝えるのはとても大事なこと。本人が自覚していない良いところ、長所っていうのは、他人に言われて初めて気づくことが多いような気がします。人の評価は当てにならない、と言うけれど、自分の評価もあまり当てになりません。自分でそうだと思いこんでいるだけなのかもしれないですからね。

 他の人との比較なんてまったく意味がない。目標はあくまでバッハやベートーヴェン、ショパンなど偉大な先人。それはもちろんそうなのだけれど、せめて曲がどう思われているのかぐらいは知りたいものです。

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「隔たりのあるフレーズ」練習曲、再掲

 掲示期間が短かったので再掲。楽譜中の指が間違っていたのを訂正したのと、midiをほんの少しだけいじりました。
 本日とあるコンクールにこの曲を含めた数点を応募しました。入賞しなくても全然かまわないのだけれど、せめて審査員がどう感じたのかぐらいのコメントがあるとうれしいなぁ。

04.01.30(Fri) ネットで繋がる
 ネットで繋がる。コンピュータを手に入れて電話回線や光や無線でネットに繋がる、やったね。というお話ではなくて、繋がった後のことを少々。

 ネット以前でのコミュニケーションというのは、人と人とが直接会って話すことがほとんどでした。もしくは電話ぐらい。今日ではネット上で会ったこともない人とやりとりすることが当たり前になっています。十年前、まだネットが世に出て間もない頃だと想像するのが難しかったですね。一部の人がパソコン通信などでやり取りするのを見て、奇妙に感じたものでした。

 ただ、良い側面ばかりではありません。メールという手軽なコミュニケーションの手段が出来たおかげで、スパムメールに日々悩まされています。時にはウィルスが添付されてくることも。相手が見えないと酷いことをする人もいるのです。メールアドレスをネット上に公開している人は、ものすごい数のスパムに悩まされているかもしれません。
 ホームページを持っている人は、悪質な書き込みに悩まされることもないとは言い切れません。更新意欲を失い閉鎖してしまうかもしれません。

 そういうのをさっ引いたとしても、自分のサイトを持つというのは素晴らしいこと。こうして世の中に自分の文章が発表出来る機会は、以前はごく限られていました。それこそ自費出版などや、出版社や音楽業界への持ち込みのような大事でしょう。ネットのおかげでみなさんに文章や曲を見てもらえる機会が出来たのですから。
 僕は作曲専攻を卒業しました。ですから同期はみんな作曲をする人です。ですけれど、この中の何人が作曲を続けていることか。作曲をやめた原因の多くは、演奏機会・発表の場が失われた事による意欲の低下です。収入源が音楽であるというのとはまた別な話で、例え収入が音楽以外であっても演奏と発表の機会があれば作曲をし続けている気がします。
 メノモソだけではなく、はてなダイアリーの方でもフレーズに関して活発なやり取りがありうれしく思います。音楽の、しかも非常に狭い範囲でのやり取り。普通に生活を送っていたらそうそう出来ることではありません。さまざまな意見に触れることは大変貴重です。

 このサイトに来るすべての人が音楽だけに興味があるとは限りません。また、主たる興味が音楽でも、他のまったく別分野のサイトに行くこともあるでしょう。人の興味は多岐に渡るのが普通です。
 僕がいつも行くサイトに「ホームページ朱雀」があります。朱雀正道さんは写真家なのですが、美術・写真・建築・音楽・文学と興味が多岐にわたっています。始めてこのサイトに行ったときには検索で音楽のところにたどり着いた、と記憶しているのですけれど、広大なサイトを周りいろいろ感心してしまったのです。音楽を検索しに行った時には音楽以外に目もくれない、これが僕の普通なので異例中の異例。たいていの場合、いろいろ手を広げているサイトは中身が薄いと感じているためでしょう。

 で、今日たまたまメールを差し上げたら返事が来ました。実はいろいろなサイトにメールをしても返事がないことが多く、また、返事の文面に驚いてしまったのです。何とメノモソにリンクをして下さるとのこと。ちょっと過大評価だなぁ、照れてしまいますよ。

 とまぁ、メールでのやり取りを経て朱雀正道さんのホームページと相互リンクすることに。先ほどページのリンクコーナーを拝見したのですが、ここでもまたびっくり。僕の同窓生のサイトが朱雀さんのリンクページにあったんですよ。朱雀さんは僕らが同窓生であるのを知らないハズで、このことはまったくの偶然なんですが、とても驚きました。

 あぁ、ネットで繋がるとはこういう事なんですね。奇妙なご縁を感じずにはいられませんでした。

ホームページ朱雀

 写真家、朱雀正道さんのサイト。活動の範囲が多岐に渡っている方で、その何れも造詣が深く、噛めば噛むほど味が出るスルメサイト。僕の百語りよりもまず一読を。メノモソに来ている人ならばきっと気に入ると思います。

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