音楽の楽しみの一つに演奏家の聞き比べがあります、例えばショパンのエチュードの聞き比べといったように。これが可能なのは偏に楽譜のおかげですが、楽譜のおかげで一つの決定的な解釈ではなくいくつもの解釈が出てくることになるのです。そう、正しい解釈ではなく、間違った解釈ということも十分にあり得ること。その真贋は私たち自身が見極めなければなりません。
バッハ以前はネウマ譜と呼ばれる四線譜、さらに遡ると音程の上下が△や○によって表される動機譜(エクフォネティック譜)と呼ばれるものがありました。その時代は器楽優位の時代ではなく声楽優位の時代でしたから、音楽はおそらく口伝で手取り足取り伝えられるものだったのかもしれません。ですから、そんなに細かく曲を書き表す必要がなかったのでしょう。 しかし、声楽から器楽に興味が移ってくると、細かいリズムや音の高さを示す必要性に迫られてきます。始めは声楽のパートを楽器に置き換えるだけだったのが、器楽は器楽として演奏されるようになったのでしょう。そこでやっと五線譜の登場となったのです。 バッハはきちんと五線に記していたのですが、その時期には旋律と通奏低音と呼ばれるコードのようなものしか書いていない楽譜もたくさんありました。演奏家イコール作曲家という時代だったのです。そんな時代ですから、バッハの曲でさえフレーズの書き入れがないのは当然かもしれません。演奏家=作曲家ですからフレーズ感などごくごく当たり前の知識として持っていたのでしょう。
さて、ここからが問題です。バッハの楽譜に当たるとして、何をもって正しい楽譜と為すか。いろいろな楽譜を見るとすぐにわかることなのですが、どれもこれも異なった解釈になっているのです。バッハの生きた時代には共通の知識として書き込まなかった(書き込む必要もなかった)ものはバッハの時代には有効ですが、現代のフレーズ感覚とはずれてしまっているのです。指番号からスラーの書き入れ、果ては装飾音符まで。そのために後世の校訂者によって、たとえ同じ人でもバッハ時代のさまざまな文献を発見したりしたために校訂年によって解釈が違ってきてしまいます。平均率クラヴィーア曲集にはバルトークが校訂している版があるなんて、ほとんどの人は知らないと思います。でもこれを手に入れてみてください、その拍子解釈に驚かずにはいられないでしょう。実拍子と記譜表記が違っているなんて、なかなか想像出来るものではありません。現代においてはおそらく拍子記号を変えてしまうであろうヘミオラを平気で使っています。
作曲家が作曲家の頭の中だけでわかっている表現も問題になってくるでしょう。ピアノ曲においてフレーズには二つ意味があり、一つは指使い、もう一つは息(文字通りのフレーズ)ということです。ですから厳密な楽譜には二重フレーズで書かれているかもしれません。しかし、ここで指使いが校訂者によって変えられているとしたら、フレーズはまったく違うものになってしまうかも。他人による校訂以前に、作曲家は指使いのことはあんまり考えていないかもしれないし、その作曲家だけの指使いで書いているかもといった具合。例えばショパンは自分の頭では完全にわかっている音楽なのに、譜面に書かれている情報はごく一部に違いありません。演奏者がピアノの音色をショパンと同じぐらい理解していればわかるかもしれないけれど、でもそこまで細かいことなど書きようがないでしょうね。
バッハのところで気づかれた方もいるかもしれませんが、音楽を演奏する人が知っているべき共通の知識というのがあります。つまりクラシックにおけるフレーズ感、テンポの揺らぎやダイナミクスの付け方なのですが、これらは知っているものだとして作曲家が書かない場合も。バッハ時代には書き込みしていないですが、ドビュッシーに至るとほとんど全音にアーティキュレーションが書き込まれています。 ここで僕は考えてしまうのです、ドビュッシーの時代になると書き込みが多くなるのは何故なのかを。1900年代にはもう演奏家=作曲家ではあり得ず、演奏家と作曲家との間で共通の音楽知識がなくなってしまったから、書き込みせざるを得なくなってしまったのか。それとも作曲家が進みすぎてしまって演奏家と音楽認識が乖離してしまい、書かないと不安で不安で仕方がなくなってしまったからか。いずれにせよここまで書き込みがしてあるならば、校訂者は何もすることがありませんね。
近代五線譜はかなり完成度が高いメディアなのは確かで、音の高さも、長さも、強さも、すべてが書き込まれています。その実、書き込まれた全てがとても曖昧なものなのです。その曖昧なものを一掃しようと、トータルセリーにまで行き着きました。ですが、音楽を人間が完全に支配することなど不可能で、そのアンチテーゼとしてジョン=ケージの偶然性の音楽に行き、その後の勘違いを経て、わかりやすいネオ・クラシックなどいうところに落ち着きました。つまり、わかりやすいクラシックやミニマルなどのことです。
楽譜というメディアは未熟で未完成ですが、その未完成さ故にさまざまな解釈が生まれることになるのかもしれません。楽譜に当たる時には、あなた自身の解釈を是非楽譜に書き加えてください。つねに楽譜を疑ってかかるぐらいがちょうど良い、疑いを一つ一つ晴らしていくことがあなたにとって完全な楽譜となるでしょう。
■ 楽譜の選び方
国立楽器より
バッハに限らず、ショパンだろうがバルトークだろうが、自分の解釈を楽譜に反映させてください。先にも述べたように、楽譜のpやfにしたって相対的なものでしかないし、テンポなどは全てに細かく書き入れることは不可能とさえ思います。極端なことを言えば、曲中一小節たりと同じテンポとダイナミクスの場所はないのです。 絶対的な演奏などありはせず、十人十色、百人百様の演奏解釈がある。だからこそ音楽は面白い。 |