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メノモソはmusica-dueの一部です
04.03.02(Tue) 採用と不採用の間
 インスピレーションが湧いて曲を書こう、となったとします。そのときに一番はじめにすることは、もちろん今頭に鳴っているものを急いで五線に書き付けることです。三十秒ぐらい頭に鳴っているインスピレーションだったとしても、五線に書いている間にイメージはどんどん変形していきますし、書いている内になくなることも。

 いったん書き終わった楽譜を見て、そこからイメージをさらに膨らまそうとしたとき。さらにイメージが膨らむ場合と、まったく何も思いつかない場合があるのです。
 イメージが膨らむときは簡単、筆の進むままとにかく書く。書き終わったところで見返し、構成をたてて、さらに書き進める。構成作業と書きましたが、このような一種躁状態にあるとき構成作業などほとんど必要なく、一気に書き終えることが出来ます。それが良い曲かどうかは別の話ですけれど。
 イメージが湧かないとき。いつもこの状態なのですが、どうにかして書き進めようと努力します。

 雀の涙程度しか湧かないインスピレーション。たった二小節、四小節で止まってしまうことも多々あります。ほとほと途方に暮れてしまうのですが、そこから完成まで持っていけることを僕は知っている。作曲をしたことがない人が見たらあまりに作為的で笑ってしまうだろうけれど、その数小節でどうにかしようと思えばどうにかなってしまうのです。

 はじめの数小節。あれこれ想像出来る一番楽しい時でもあり、また力不足でどうにもならないんじゃないかと不安になる状態。
 先ほど数小節でも完成にまで持っていけると書きました。故にこの短いスケッチで悶々としてしまうのです。果たしてこの素材は良い素材で、一曲にまとめ上げるに足りるのだろうかと。もちろんそれなりにでっち上げることは出来ます。しかし、それが演奏されるに足りるのかどうかと考えてしまいます。良い素材かどうかの見極めはかなり難しい。悪い素材だと思っていたものでも、まとめてみたら良い曲になることだってあるのですから。逆に良い素材だと思い喜々として書き進めた曲が平凡になることも。

 短いスケッチから曲を完成させられるか否か、そこからイメージを膨らませ良い曲にすることが出来るか否か。実のところどういうのが良い素材なのか、よくわかりません。悪いと思っていた素材でも良い曲が出来るところを見ると、ほとんど気の持ちようなのではと思ったりもします。
 つまり採用・不採用の間には、作曲をする時のインスピレーションやモチベーションなど感性の部分に深く関わっている気がするのです。加えてその時々の気分とか、体調とか、その他もろもろが関わってようやく完成まで持っていける。もちろん良い素材があれば曲を完成させられる率は高くなります。良い素材は良いインスピレーションを呼びますからね。

 数小節で書き終わってしまったスケッチが、段ボール箱いっぱいにあります。それも複数個。スケッチは毎日のように執っていますから書き溜まる一方。手元にあるスケッチは常にどうにかしようと試みていますけれど、一ヶ月かかってもどうにもならないものは残念ですが段ボール行き。その段ボールの中には完成させたら良い曲になるかもしれない、しかし書いている時にはどうしようもなかった、中学時代から書き貯めたたくさんのスケッチが眠っているわけです。

 手元にいくつかスケッチがあり、そのうちの一つがメノモソ用の「旋回運動」練習曲。この二週間ほど悩み続けています。僕としては悪くはない気がするのですが、どうにかなりそうな気がしません。スケッチ採用と不採用の見極めが簡単に出来るようになるといいのですが、なかなか上手くいかないものです。

@ぴあ

 品物を買うときには見極めが必要なのだけれど、手に取って見聞きすることが出来ない映画とかコンサートはどうやって判断すれば良いのでしょうか。人の批評もあまりアテには出来ませんし、その時の心理状態もあるでしょう。

04.03.05(Fri) 作曲家の本分
METEORAからおいでのみなさま、ようこそメノモソへ。昨日のタイトル「採用と不採用の間」でのリンクだったので勘違いされているかもしれませんが、ここは就職・転職サイトではなく、僕ことTackMのPDFとMIDIによる楽譜配信サイトです。左のPDFというところで曲が聴けますのでどうぞよろしく。

 ここのところ私的にいろいろあり作曲家について考えています。日々の生活で作曲に重きをおいている人は作曲収入の有無に関わらず、だれでも作曲家だという話を以前しました。逆に言えば、作曲収入があっても過去の遺産(印税)でしかなく、現在は作曲をしていない、という人は作曲家とは呼べません。元・作曲家というのが正しいでしょう。
 私的に感じるのは、作曲家は過去に作った作品を代表作などと自分で言ってしまうのはかなり恥ずかしいこと。僕のたった今作り終わった曲はこれまでの最高傑作であって欲しいし、次に書く曲こそが最高傑作だと言えるようでありたい。実際そうしていかないと作曲家として力をつけられないでしょう。だからいつでも本気で作曲をしたい、心底そう思います。

 作曲をしている者は多かれ少なかれ自己顕示欲を持っています。曲を作れば聞いてもらいたいと思うのは当然のこと。だから曲を発表し、それによって人に知ってもらえる。だけれど、それがどの程度理解されているかというと、まったく理解されていない場合だってあるのです。大変悲しいことですが、仕方がないことかもしれません。聞き手と弾き手と作り手、すべて別の人間によってなされているのですから。
 それでも作曲家は曲を作り続ける。理由は人それぞれ違うでしょう。僕は知ってもらいたいという自己顕示欲と、生まれてきたのは何のためかという自身への問い、美の追求、人を喜ばせたい、などなどです。

 だからと言っても、僕は何が何でも有名になりたい、目立ちたい、というのは違います。文章で有名になりたいわけでも、テレビ番組の主役になりたいわけでもありません。あくまで音楽で知ってもらいたいのです。ここでこうして文章を書いていますけれど、これは僕を知ってもらう手助けにはなるでしょうが、文章を読んでも音楽がわかてもらえるとは思いません。また思えません。一例を挙げるのならば、シュッテルンクやロールンクで弾いた音と指先だけで弾いた音の差を文章で伝えるのは無理です。どんなに細かく書いたとしても、読者が実際に演奏するか聞くかしないと音楽はダメなのです。さらに言うならば、実際に譜面を見て演奏できたとしても、正しく演奏されているかも難しいところ。機械のような弾き方をされていないとも限りません。難しいことだらけです。だから少しでもその音楽理解の手助けになればと、文章を書いているわけです。正しく知ってもらえないのならば、知ってもらわない方がよいのかもと極論を言うつもりはありませんが、時々ほんのちょっとだけそう感じることも。

 サイトを持ち曲を公開していれば、知ってもらえる機会は確実に増えます。ですから作曲家にとってサイトを持つことは負担にはなりません。しかしながら、サイトを持つこと自体は目的ではなく、知ってもらうための手段以上ではありません。作曲家の本分はあくまで曲を書くことであり、サイトは知ってもらうための強力な手助けになります。
 ただ、ネット上のどこかで紹介されたからと言っても、僕の思うとおりに曲が正しく伝わったかどうかはまったくわかりません。曲を聴き、弾き、感じるのは読者自身です。権威が言ったから必ず正しい、ニュースだから間違いない、というのはかなり危険なこと。自分自身で感じてください。その上でもっと聞きたい、もっと弾きたい、と思わせることが出来たなら作曲家として幸せなことです。そうなるべく作曲家は曲を書く努力をしなければいけません。良い曲を書くことこそが作曲家の本分であり目的なのです。

METEORA

HAGAKURE理論より

 情報羅列系のサイトは便利なのでよく使います。ただ、ニュースは読んでから自分自身で考えることこそが重要であり、ちょこっと見ただけでわかったような気になるのは危険です。考えるのはあくまで自分自身だというのをお忘れなく。その上で見たらこれほど知的好奇心を満足させるものはありません。それにしてもSickさんはすごい情報収集能力だなぁ、いつも感心させられます。

04.03.06(Sat) ピアノのピラミッド
 日本におけるピアノの普及率はかなり高い。数字を知っているわけじゃないけれど、子どもの頃を振り返ってみてクラスに一人や二人はピアノを弾ける子がいたように、普及率が高いのは想像できます。しかし、その子どもが中高大と成長してからもピアノを弾いているかというとそうではありません。飽きてしまったとか、受験のためにやめたとか、理由はいろいろだと思います。ピアノが好きならばどんな理由があろうともピアノを弾き続けるような気もするのですけれど、これはずーっと弾いてきた側から見た私見でしょうか。

 親から強制されてやっていた、あるいは嫌な宿題のように感じていた子どもは、当然のことながらピアノを好きにはなれないでしょう。ピアノがたまらなく苦痛に感じていることだってあるかもしれません。一方、ピアノの音にうっとりしてしまうような子どもならば、親に口やかましく言われなくても自然とピアノを弾くと思います。
 その背景にあるのは、感動を体験(体感?)出来るかどうかでは。音楽で感動的な体験をした人はやっぱり音楽好きになると思いますし、それがピアノで体験したのであればピアノ好きになるでしょう。これはどんな分野でもそうです、芸術だけじゃなくてスポーツでも。
 ただ、何かをはじめる取っかかりの時にそれがつまらなかったとしたら。それでは好きになることすら難しいかもしれません。ずっーとやっていればひょっとしたら好きになるかもしれませんが、そうなる前に嫌になるような気がします。取っかかりの時点で面白い方が、好きになる確立は高いのです。

 感動的な体験を重ねていくことによって、どんどん上手になっていきます。ただ、そういう体験がなければ上手くなることはないかもしれません。いたずらに時間ばかりとられ、面白みを感じられないまま嫌になって止めることになるのかも。初級ピアノであればとりあえずバイエルをやるのが多いですけれど、バイエルの時点で面白みを感じられないというのはよくあること。だからバイエル終了と同時にピアノを止めてしまうのです。
 そうやって上手になる課程で感動的な音楽体験がないと、やっぱり止めてしまう確立は高くなる気がします。

 ピアノ曲はたくさんあります。ただ、初期段階で使える楽譜はかなり限られる。難しい曲は弾けませんし、簡単なものを作るということが作曲家を縛ってしまうからです。作曲家は自由な発想を曲に盛り込もうとしますが、それを入れてしまうと初級者は弾けません。

 ピラミッドを思い浮かべてください。ピラミッドですから底辺は大きく、その底辺に位置するのが初等段階のピアノ弾きです。ここに焦点を絞って書くことはとても重要なこと。なぜならこの位置をおろそかにして曲を書くと、そのピアノ弾きはピアノを弾くことに嫌気がさして止めてしまうからです。初等段階用の簡単な曲ですから、弾いて楽しいかどうかを見抜くのもまた簡単。そのためにたとえ簡単な曲で技術的に制約があったとしても、弾いて楽しくなるように全力でやらなければならなりません。子ども用だから簡単に作れるだろう、なんて甘い考えで作れるようなものではないのです。それに初期段階で使える曲集は存在しています。
 
 これは作曲者側の都合なのですが、ピラミッド底辺の曲を書くことは作曲者を知る機会を増やすことになります。バイエルで育った人はバイエルを必ず知っていますが、シマノフスキーやヒンデミットを知っているかと問えば、知らない人の方が圧倒的に多いでしょう。ピアニストにピラミッドがあるように、作曲家にもピラミッドがあるのかもしれません。

シマノフスキ全集(1)

Amazon.co.jpより

 高校生ぐらいの時に聞いて、こりゃ感性と合わないやと投げ出していたシマノフスキ。ところが先日あるmp3を聞いたらそれが良くてビックリ。こういうのもちょっとした感動体験。しかし、これは素晴らしい演奏に僕の感性が付いてこられたからであって、ダメな演奏だったらやっぱり聞く気にはならないと思います。それに譜面を見たら難しくて投げ出しました。ピアノのピラミッドを痛感する出来事です。
 ところで、メノモソに置いてある練習曲。これは計画当初バイエル程度を目標にしていたのですが、現時点でその域から完全に逸脱しかなり難しいものになっています。なので、今後はもっとシンプルで簡単な曲を用意する予定。今のままだと練習曲として一冊にするのは難しく、ミクロコスモスのように複数冊になる気がします。

04.03.10(Wed) 五本指の表現力
 ピアノの指使いとフレーズとの関係性に気付いてから、ピアノにはピアノに相応しいフレーズがあるんじゃないのかとよく考えます。五本の指でやっている以上、五本指以上のことは出来ようもない。片手で十五度とか、ラフマニノフでもない限り無理です。

 指を変える作業は滑らかさを損なう。ドレミファソラシドを弾くよりも、ドレミファソで止めた方がやっぱり楽なのです。ドレミファソのような手の状態から動かせる範囲内で弾くのが楽。表現力を訴えるような箇所、具体的には歌う部分にはなるべく手に楽をさせて最大の実(表現力)を取るのがいいのかな、なんて。ただ、こればかりだと面白みがないのは事実なんですけどね。
 ピアノ初級者の表現力と、ある程度学習が進んだ人では表現力が違います。習いたてに求められるのは、とにかく弾けること。ピアニスティックを考える余裕なんてありません、鍵盤に向かって指を動かすので必死ですから。そういう人にはドレミファソの指使い、手を広げた状態が最も表現力があります。ただ、これだと慣れてきた人には少々物足りない気がします、ピアノを弾く喜びに欠けるからでしょうか。

 ピアノを弾く喜びと、表現をする喜び。これらの両立を考えるとかなり難しい。ピアノを弾く喜びを追求して難しくすると表現力を奪われる可能性があり、表現力を求めると今度はピアノを弾く喜びに欠ける。もちろんピアノを弾く対象をどのぐらいのレベルで設定するかによって違ってくるとは思います。
 レベルに応じた曲の設定と、それを狙っての曲作り。課題は山積みです。

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「旋回」練習曲 / MIDI

 お待たせしました、「旋回」練習曲の完成です。シュッテルンク、ロールンク、指先のみでの演奏。なるべく指を返さないで、手を開いた状態で手首を旋回させて弾けるようにしています。
 同じタイトルで作りかけていた曲を完全破棄、前に考えていたものとまったく違うものになっています。曲にかかった時間よりも、その前段階の研究にえらい時間がかかっています。

04.03.14(Sun) 貧者の発想
 ベートーヴェンを以前よりも理解するようになり、自身の曲においてベートーヴェン的発想をわずかながら取り入れるようになってきました。内的統一を図るために、細胞動機的なことを多少なりとも考えるようになったのです。内的統一について以前考えなかったということではないのだけれど、より具体的にどうすればよいのか模索しているというところでしょうか。

 細胞動機的な発想に基づく曲作りをベートーヴェンはしていました。通常考えられている動機をもっと細かく見る方法だけれど、知れば知るほどこれは尋常ならざる作曲技術だと感じるようになってきたのです。

 チャイコフスキーは才能豊かで、フレーズが四六時中浮かんだことは想像に難くありません。構成など考える必要もなく、次から次ぎへとわき上がってきたのでしょう。主題やパッセージが目まぐるしく現れ、消えていきます。フレーズが矢継ぎ早に浮かんだからこそ出来る作曲方法であって、ベートーヴェンには考えられないこと。
 ベートーヴェンは音楽的センスがそれほどなかったのでは、と思えるほど新しい旋律が出てきません。ひょっとしたら出てきたのかもしれないけれど、それは本人ではないのでわからない。でも、新しい旋律が次々と出る人が月光ソナタを書くとも思えないのです。フレーズがわき上がってしまう人があんなフレーズで満足出来るでしょうか。

 ベートーヴェンは音楽的才能にそれほど恵まれてはいなかった、と僕は見ています。極論するならば、ベートーヴェンが今日に至るまで名が残っているのは彼が才能に恵まれていなかったため。これはもちろん僕の推論であり、事実とは違うかもしれません。でも、彼の作曲流儀は貧者の発想に基づいているのは疑いないところ。

 富める者は千円をありがたく思わないかもしれません、しかし困窮するものにとっての千円は生活を左右することもあります。ベートーヴェンの作曲法はまさに貧者の発想。たった一つの細胞動機から素材を作り、それを基に主題を決め、さらには曲全体を構成していきます。もしパッパとフレーズが思い浮かぶようなことがあったのならば、何もこんなに七面倒くさい作曲方法をとらずとも良かったのです。ただ、ベートーヴェンはそうではなかったために、どうにか作曲をする方法を考え出した。それがベートーヴェン流の作曲・構成方法で、故に巨大な交響曲でも一曲丸々統一が取れたということ。

 実際にやってみてわかることなのだけれど、この方法でやるのは本当に難しい。まず音楽になりません。旋律が浮かんでから曲を書く、というのではなく、例えばある箇所を5度音程にするべく書こうとか、音楽的というより作業めいています。結果的にそういう音程になったではなく、逆算して考えるのです。それこそ曲の全てを。でも、こうしないとベートーヴェンは曲が書けなかったのでしょう。

 こういう発想の基に曲全て(それこそ末端まで)を書いた作曲家は音楽史上ほとんどいなかったのでは。もちろん作曲家たちはベートーヴェン的発想の重要性をわかっていたから、統一について試行錯誤しています。ベルリオーズのライトモチーフもそういう流れでしょう。でも、ほとんど全ての作曲家はベートーヴェンの域まで細胞動機を考えてはいなかったし、また考えられなかったのでは。考えていたら作曲は恐ろしく難しいものになるのは事実だし、何より作曲家の才能が邪魔する気がします。誰もそこまで才能に窮してはいないのです。だから統一を取るための部分採用止まりで全編にする必要を感じなかったのでは。
 ベートーヴェンに肉薄していたと考えられる(僕が考えると言った方が正しい)のは十二音技法の人たち、中でもウェーベルンなのだけれど、生涯を通じて作った曲はわずかですし、また普段から聞きたいと思わせるような曲でもありません。ベートーヴェンに音楽的才能はなかったかもしれないけれど、優れた美的感覚を持っているという意味では人類史上でも希有な存在なのです。

diary040310.mid / MIDI

「旋回」練習曲 / MIDI

 掲示期間が短いため再掲。中間部で気になるところがあり、校訂に戸惑っています。楽譜はもう少々お待ちください。
 作曲に関して。僕にはチャイコフスキーみたいになるには才能が欠けているし、ベートーヴェンのようになるには人生の時間が足りません。ベートーヴェン的な曲を書くことが不可能だとは思いませんが、一年がかりで一曲(あるいはそれ以下、しかも短い曲で)になってしまうでしょう。
 本文においてほとんどの作曲家はベートーヴェンの域まで達していないと書きましたが、時間が足りないというのが一番の理由かもしれません。だから多くの作曲家が折衷案を採用するのでしょうか。ベートーヴェンがあの作曲方法でソナタ32曲、交響曲9曲、弦楽四重奏16曲も書いたというのは、作曲方法を知れば知るほど化け物めいて感じてしまいます。

04.03.16(Tue) 作曲後の実感
 毎度毎度のことなんだけれど、作曲をしているとき及び作曲終了直後にまったく実感が湧いてこないのです。一応書いているとか、一応終了したとか、そんな感じ。書いているときには能力のギリギリのところを使っていますからヘトヘトで、とりあえず解放されたという安心感はあります。

 終止線を書き入れてから校訂作業に入り音を直していると、少しずつ良い曲ではないのかと思えるようになってくるから不思議。書いているとき余裕がなかったところが徐々にわかるようになってくるというか、感覚頼みで書いているところにきちんと理論の裏付けが出来るというか、そういう過程を経ないとどうしても安心できません。
 直していると他人の曲を見ているような奇妙な錯覚に囚われることも。どういう発想で作曲したのか書いた直後でもわからないときがあるのです。そういう部分を書いている時には頭の深いところに降りているような気がします。そこを突き詰めて見ていくと、あぁこんな事を考えながら作曲していたんだと思ったり。まるで他人事のようですが、よくあることです。

 料理を作ったとして。自分で味見してとりあえず良いとは思っているけれど、本当に美味しいかどうかはわかりません。自分の中では美味しいだろうな、という手応えみたいなものはあるような気がします。でも、料理を実際に他の人に出して食べてもらわないと不安。食べてもらって「美味しい」という言葉を耳にし、はじめてこれは美味しい料理なんだとわかる。作曲を終えた直後はそんな感じです。浄書が終わった段階ではもう少し進んで、これは美味しい料理だから食べてみてよと自信を持って言える段階でしょうか。いや、実物が不味かったとしても自分の中では美味しい料理だと思っていますから、他の人がどう思うかまでは責任が持てないというのが正直なところ。

 ただ、これも毎度毎度のことなんだけれど、良い曲を作ったんだという実感があったとしても二〜三日で消し飛びます。曲を書き終えた達成感が良い曲を書いた実感になっているだけで、歴史に残るような良い曲を書いたかと自分に問いかければノーだとすぐ返事が来ますから。まぁ、今は束の間の幸せを感じていますが、いつかは本当に良い曲を書いたと実感したいものです。

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diary040310.mid / MIDI

「旋回」練習曲 / MIDI&楽譜

 お待たせしました、「旋回」練習曲の浄書完成です。少々校訂が入り音が変わっていますが、前回掲示のMIDIとの違和はないと思います。
 演奏の注意というかヒント。楽譜中に書き込みをしてありませんが、中間部において右手と左手のダイナミクスをずらしています。旋律が降りても伴奏は上昇する、あるいはその逆の箇所があるので、そのあたりを考慮に入れて演奏してください。ひょっとしたら後日の校訂で右手と左手別々のダイナミクスを設定するかもしれません。

04.03.17(Wed) 敏感と鈍感
 感覚が鋭いことを敏感、鈍いことを鈍感と言いますね。では、感覚が鋭いってなんだろうというのが今日の話。

 会社の退社時間になるとお腹が減ってきます。学校の給食時間でもいいです。とにかくそういう時には感覚が敏感で、ちょっとした臭いでも美味しそうと感じます。これはお腹が減っているために食事のことを考えているから。無意識のうちに考えているのかもしれません。
 約束の時間に遅れそうな場合、時計がとても気になります。ほんの少しでも信号に時間が取られたり、電車が来なかったり、渋滞に巻き込まれると、相当慌てますね。これは待ち合わせというのが頭にあるために起こることで、もし時間に縛られない日曜日に無目的に一人町を歩いているならばまったく慌てることもないでしょう。

 あることに意識を持っていれば、自ずとそのあることに対しての感覚が鋭くなる。それにほとんど意識を払わない状態であったとしても、普段考えていれば自然と目や耳がそちらにいってしまうということです。

 音楽に敏感になる。これだとかなりおおざっぱな言い方ですね。ある人にとっては流行に敏感になるということだし、またある人にとっては好きなアイドルに敏感なだけで音楽には感心がないのかもしれません。どこに意識があるかでやっぱり感じる箇所が違うわけです。
 例えばピアノが好きで好きでたまらない人がいるとします。その人は間違いなく音楽好きです。でも、オーケストラはほとんど聴いたことがないかもしれない。
 また、同じピアノの曲を聴くのでもまったく違います。ある人はピアノの音それ自体が好きで、曲は何でもよいのかもしれません。

 同じ音楽でも、ちょっと挙げただけでもこれだけ感じ方が違う。今、僕の目下の関心事はピアノにおける指とフレーズの関係。指から来る弾きやすさと表現力。そんなところに非常に敏感なわけです。でも、これらはCDなどで聞かせてもわからないだろうし、またコンサートで聞いてもわからないかもしれません。実際に譜面を見てピアノを弾き、始めて僕が言わんとすることがわかるのかも。それでも、弾いてくれた人がそこに感心を持たなければ恐らくわからないでしょう。ただ漠然と弾いてきれいだな、と思うぐらい。

 物事に敏感であるということは、その物事に常に感心を払うのと同じか、それに準じているのかもしれません。

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diary040310.mid / MIDI

「旋回」練習曲 / MIDI&楽譜

 掲示期間が短かったため再掲。指とフレーズの関係、弾きやすさと表現力。これらが徐々にわかってきたようで、音で聞くよりも弾きやすい曲になった気がします。まだまだやり残したことがたくさんあるので次作につなげていきます。どうぞよろしく。

04.03.20(Sat) 好悪と理解
 人は理解が出来ないものに対してあまり好ましい印象を持たないもの。これはよくわかります。わからないものよりもわかっているものの方が安心感がありますから。それに理解が出来ないものは嫌いになりがちで、そういう心情もよくわかります。また、中には頭では理解が出来るけれど心がついていかないものも。

 世の中にはいろいろな曲があります。ジャンルもたくさん。でも、多くの人は聴くジャンルも曲も限られてきます。自分がよく理解できるものであれば聞くでしょうし、そうでなければ聞く機会は限られたものになるでしょう。あえて他ジャンルの曲を聴くときには、人に薦められたか、よっぽどその曲が気に入ったためかもしれません。
 家のCDラックには結構な数のCDがありますが、聞かない曲もいくつかあります。特に現代音楽などは年に一回聞けば良い方で、恐らく買ったときに一度聞いただけで十年間以上一度も聞いていないのでは。そういうものは頭で理解しているけれど、心がまったくついていきません。

 例えば、僕はブラームスが苦手です。三大Bの一人である大家、ベートーヴェン的音楽の正統な後継者。高校の時に持った印象は、波のような音楽。どうしてそんな印象を持ったのか、そして今に至るまで好きになれないのか、よくわかりませんでした。でも、ブラームスの曲分析をして、ほんの少しだけどうしてそんな印象を持ったのかわかった気がしたのです。
 ブラームスの曲の作り方は、音の波みたいな感じ。ある旋律が歌っているところで、その旋律が歌い終わるまでに次の旋律が始まります。その次に来る旋律も前の旋律とよく似ている。第一主題と第二主題の間にある経過句も、第一主題と第二主題の色が両方あるというか、中間色見たいな感じ。こういうような曲の作り方が変化のない静かな波のように見えたのでは。
 ただ、こういう風に理解が進んだたとしても苦手なものは苦手で、やっぱり心がついてこないのです。心が受け付けないものは頭で理解することを拒むし、逆に心が頭より先に好ましく感じたならばどうにか理解しようと努めるのではないでしょうか。

 クラシックは苦手、近現代の曲は苦手。そういう人の多くは食わず嫌いではなく聞かず嫌いだと思うのだけれど、中には嫌いだという固定観念が理解を拒んでいるのかもしれません。

交響曲第一番、ブラームス

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 どうやっても好きになれないブラームス。交響曲、室内楽、ピアノ曲、そのどれもがダメ。調性音楽でかつメロディアスなものも多いのに、どうしてダメなのかわかりません。僕自身もほとんど偏見ではないかと思うのだけれど、どうしようもありません。ブラームスと同じようにダメな作曲家にフォーレがいます。フォーレの半音階作法は決して嫌いではない、むしろ好ましく感じるのに、やっぱりどうしても受け付けません。

04.03.23(Tue) 難聴と作曲
 ベートーヴェンが難聴であったというのは有名な話で、おおよそ音楽とは無縁の生活を送っている人でも知っていることがあります。

 音楽家が難聴になったらかなり致命的なのは想像に難くありません。作曲家は頭の中で音を作れるから演奏者に比べればまだ良いような気もしますが、それでも聞こえなくなったら作曲に支障があるのは目に見えています。それでも、作曲家は音楽を作ることを音のない世界で模索するでしょう。
 電話機で骨伝導式のものが出ているのを知っている人もいるかもしれません。ベートーヴェンはピアノにかじりついて、振動によって音を感じて作曲しました。でも、人の声や楽器の音が聞こえなかったでしょうから、それが楽譜において如実に現れています。もし耳が聞こえていたならば、第九交響曲はあれほど歌いにくくはならなかったと思うのです。

 音のない状態において作る曲、ちょっと想像するのが難しいですね。音が聞こえなかったから、恐らく曲の作り方も変わってきたと思います。ピアノで音を弾いて確認することが困難(かじりつかなければいけなかったから)だったためにピアノに接する機会は失われたでしょうし、弾ける・出せる音は想像の域で書かれたのでしょう。さらに、ベートーヴェン特有の曲の作り方(細胞動機)のためもあり、どんどん演奏を考慮に入れない譜面になってたような気がします。もっとも、これらは僕の想像なのですけどね。

 ひょっとしたら自身が病気になり難聴になるかもしれない。そう思うと、そうなる前に是が非でも曲を書かなきゃいけないとしゃかりきに行動したい反面、体がいうことをきかずに悔しい思いをしています。

ベートーヴェン:交響曲第九番「合唱」

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 昨日から耳の下が腫れだし、熱も出てきたので風邪かと思って早めに寝ました。今朝になっても腫れが治まらず、それどころかさらに酷くなっているし、熱も上がっているし、耳もなんだか違和感があるので病院に行ったら、おたふくか耳下線炎の二択との事。まだ判断できるほど大きくなってはいないらしいですが、かなり疑い濃厚だそうです。
大人になってからのおたふくは酷いらしいく、難聴とかになるかもしれない、とか周りに言われるとかなりビビリます。

04.03.27(Sat) アイディアは待ってくれない
 作曲はコンスタントに出来るものではありません。毎日10小節づつ書いて100日で完成というようなものではなく、一日ですべて出来てしまうようなこともあります。それでも作曲は時間がかかります。書くための下準備が必要になってくることが多く、それが作曲を長引かせる原因。ただし凡庸で面白くない曲で良いのならば大した苦労はなく、経験によってすぐに出来てしまいます。そんなものが作曲者自身を満足させるかと言えばノーでしょう。

 二十年近く作曲をしていますが、未だに作曲が出来るのかどうか不安でなりません。アイディアやインスピレーションはどこから来るのか。技術や経験で書くことは出来るけれど、曲を書くためのアイディアがいつやってくるのかわかりません。わからなくて不安になってはいるけれど、書きたい・書くべき曲のことを日常的に考えていれば必ずやってきます。これは断言できます。もし曲を書きたいのに書けないという人がいるなら、どんな曲が書きたいのか見えていないのでしょう。
 アイディアやインスピレーションは待ってくれません。車の運転中、会議、風呂、食事、睡眠直前、起床直後、唐突にやってきます。そこでアイディアやインスピレーションをまとめられるかどうかが、書けるか書けないかに繋がってくると思います。それは病気の時でも同じ。普通に考えたらフラフラになっていて学校や会社を休むぐらいの体調でもインスピレーションはやってくるし、作曲家の本能としてスケッチを取りたいと思うものなのです。死んじゃったら困りますけれど、次の日が使い物にならなくてもまず頑張るでしょう。

 自分でも馬鹿じゃないかと思いますが、アイディアがある時には曲を書きたいという衝動を隠せません。若くして死んだら本当に困りますけれど、歴史に残るような良い曲が書けたなら死んでも本望。いや、もちろん死んだら困りますよ。徹夜をしたり病気の時に作曲をしていると命を削っているなとよく感じますが、曲を書いていると自制が利かなくなる傾向にあるようです。

diary040327.mid / MIDI

連弾「モールス信号」

 バイエルレベルの連弾曲。1stは「ド」の音のみです。2ndはバイエルレベルではありませんが、難しすぎるというほどのものでもない感じ。1stの「ド」はモールス信号を模しています。
 ベッドの中で急に思いついてスケッチを取り始めたらすぐに全体像が頭に浮かんでしまい、熱に浮かされたように書き上げました。いや、実際に熱あったんですけどね。

04.03.29(Mon) バイエルレベルの難しさ
 バイエルはまず一番始めに接する教本であり、ピアノを始めたばかりの人を対象にし、奏者は当然の事ながら難しい曲を弾けない人ばかり。ということは、バイエル対象者に絞って曲を曲を書くなら、まず奏者が弾けることが肝心です。

 簡単な曲を作れば奏者も簡単に書けるだろう、というのは考え方が甘いとしか言いようがありません。簡単な曲だからこそ難しいのです。
 では簡単な曲はなぜ難しいのか。複雑なことが出来ないから曲に変化が付けられないことと、そこから単調になりやすく面白い曲にならないために、簡単に作っただけでは奏者が満足するとは思えないのです。作曲家の欲求としては面白い曲が書きたいし、変化も付けたいけれど、奏者が弾ける範囲内でという注文が付くのです。もっとも面白い面白くないは、演奏者の感じ方によって違ってきます。だから作曲者が面白くないと思っても、奏者が面白いと感じることもあるでしょう。でも、作曲者自身が面白くないものを人に薦められるかというとそうではありません。

 何でも良いのなら簡単ですが、そんな物は誰も求めません。たとえバイエルレベルであろうと人に喜ばれる曲を書きたい。初心者にもピアノの喜びを、これが作曲者としての僕の望みです。

diary040329.mid / diary040329.mid

ピアノ連弾「バイエル91番風に」

 調性はh-moll、C-durからC-リディアを経てh-moll。オリジナルよりかなり変形していますが、聞けば必ずバイエル91番を思い出すこと請け合いです。
 バイエル初級のうちはどうにも曲にならないのですが、後半になってくるといろいろ出来るようになってきます。出来るようになったとはいえ、それでも複雑すぎることは出来ません。ところが弾き手は面白い曲を常に求めていますから、飽きたり練習がイヤになる可能性があります。弾くことが面白ければそんなことはない気がするのですが、実際にはどうなんでしょうね。
 浄書はしばらくお待ちください。ピアノ連弾「モールス信号」の浄書もまだですし、加えて病気していた時の雑事を片付けねばなりませんので、出来上がるのは来月になります。

examin040329.mid / examin040329.midi

バイエル91番

 オリジナルのバイエル91番。出来の悪いMIDIですが、バイエル91番を確認するぐらいならばこれでも良いかな。

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