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メノモソはmusica-dueの一部です
03.10.24(Fri) !重要なお知らせ
 02年4月から03年5月まで続いたメノモソ日記ですが、ご覧の通り現在全く更新しておりません。というのも、オリジナル音楽をPDF(楽譜)配信するという当初の目的に立ち返り、ぽつぽつとメノモソ用に曲を書き始めたからに他ならないのです。紆余曲折あって捲土重来。
 そういう訳でメノモソは本来あるべきメノモソ(オリジナル音楽をPDFで)になります。インデックスページにありました日記は世間にメノモソを知らしめる役目を終えたものとし、今後は音楽のみに力を入れるものとします。ただし、作曲はインスピレーションに左右されること大なので空白を埋めるものとして、その日にあった出来事など簡単な日常日記を書くでしょう。以前のメノモソ日記のようなものを期待しないで下さい。しかし、創作意欲が高まったならば半創作/半日常のかつてのメノモソ日記を書く可能性もあり油断なりません。

 肝心のオリジナル音楽の配信方法。いろいろ考えたのですが、PDFでの楽譜配信のみとします。と言いたいところなのですが、さすがに取っつきにくいし、楽譜が読める人でも初見がキツイ曲もあるかもしれません。そのため、MIDIによる掲示も。ただし、浄書ソフト・フィナーレからのMIDIですので、イマイチ曲に聞こえないこともあることでしょう。あくまでMIDIはおまけ、だってメノモソは「オリジナル音楽をPDFで」ですからね。

diary031018.pdf
diary031018.mid

 楽譜が出来上がりましたら、このような形で掲示となります。その際、どのように曲が作られたか、どのように弾けばよいのか、などを書き込む予定。尚、音楽関連のあれこれは「はてなダイアリー」に書くことがありますので、興味のある方はどうぞ。
 通常、曲が先に出来てMIDIを公開、後に楽譜を公開という形になります。楽譜の浄書は大変時間がかかる(下手をすると作曲よりも手間)のでご了承下さい。

 ちなみにこの曲は「混合拍子(変拍子)」練習曲。現在バイエル後半からバイエル卒業レベルの練習曲を書いております。それら過去の曲は左メニューのPDFから見られます。

 ご意見ご感想等ありましたら、下のメールフォームもしくはBBSからどうぞ。創作活動の励みになります。

03.10.25(Sat) サイトの方向性
 朝方までサイト更新に時間をかけていたので眠くて仕方がない一日。作曲をしようにも眠すぎてやる気がでず、仕方が無く別のことをすることに。

 サイト更新をしていて、同じような傾向のサイトがないかどうか気になりました。よそ様の音楽サイトはどんなことをやっているのか見てみようと、午前中費やしてネットサーフィン。特にオリジナル音楽(クラシック系)を掲示してあるところを重点的に。しかし、気に入ったところはありませんでした。
 自作ピアノ曲を掲示してあるサイトは多いのですが、その内訳は惨憺たるもの。歌謡曲のようなメロディーに伴奏を付けただけのピアノ曲が面白いか。誰かの物まね、二番煎じ三番煎じの曲を弾いてみたいか。そうではないでしょう。その作家の個性(あるいは美学、哲学)が見えてこないのもどうかと。
 本当は新しいサイトを発掘してリンクを貼り、ついでにどこかしらに登録しようとしたのですが躊躇しています。今朝見た感じでは、メノモソは多くのオリジナルサイトから遠い位置にいるような気がしてなりません。現代クラシック作曲家は難しいくてわかりにくい音楽を良かれと作って見向きもされず、ポピュラー作家はその場限りの使い捨て音楽を量産しています。作曲家はどこへ向かえばよいのでしょうか。作ることは出来ないかもしれませんが、理想像はもっています。誰も聞いたことがないけれど、誰もが望んでいる音楽。生涯をかけて取り組む課題です。

野村茎一作曲工房

 作曲をしていく上で大切なことは美的価値観と哲学を持つこと。野村作曲工房は新生メノモソの理想像です。

03.10.26(Sun) 二度あることは三度ある?
 「二度あることは三度ある」という言葉があります。同じ事が二回起これば三回目もありますよ、っていう意味ですね。この言葉を使う時のことを考えると、大体ネガティブな感じで使われていることが多い気がしませんか?二度あることは三度あって欲しくない、そんなニュアンスが言葉の影に隠れている気がしてならないのです。立て続けに三度怪我したり、皿を割ったり、そんなことは誰だってしたくないでしょう。

 「三度目の正直」、これはどうでしょう。前二回が失敗(ネガティブ)で、三度目で成功したという意味ですね。これもよく考えてみると、三度が三度全く同じことをしているとは思えません。普通は二回失敗したら、それを踏まえて改良をし、結果として三度目にようやく成功に結びついたということでしょう。

 この二つの言葉、二度と三度の境には大きな何かがあると思いませんか。いや、これは僕だけかもしれません。しかし、作曲をしていても二度目と三度目には大きな隔たりがあるような気がするのです。
 二回同じ事を繰り返したとします。よくあるABAの形だとしたら、二回目のAは一回目のAと同じでもまぁ許容範囲。Bが間に挟まれていることによって、一回目のAと二回目のBは異なる印象を受けるからです。しかし、その次にもう一回まったく同じAが来たら。これはもういけません。印象はすっかり鈍化してしまい、あぁまた繰り返しか、退屈だな、となってしまうのです。

diary031026.mid / 「和音と旋律」練習曲

 同じ旋律、同じ和音が数回出てきます。その位置によって音楽がどう変わるのか、それを確かめながら聞くと面白いかもしれません。曲のタイトルが「旋律と和音」ではなく「和音と旋律」、ちょっとしたアイディアです。
 この曲を作るにあたって、某掲示板でのおちゃめさんとのやり取りがかなりのヒントになりました。おちゃめさん、どうもありがとうございました(どれがヒントになったのか気づくかな?)。

※楽譜は少々お待ち下さい、週明けから行います。

03.10.27(Mon) 消耗品としての音楽
 僕はあまりテレビを見ないのですが、見ると悲しくなってしまいます。番組の内容云々ということではなく、音楽の使われ方です。ドラマなどでは番組とタイアップして音楽を流しています。音楽を売る手段としてタイアップしてるだけであって、番組内容とはあまりかみ合わないことも多いのはご存知の通り。でも、音楽は良い悪いに関わらず売れてしまいます。
 コマーシャルにも音楽。殆どの場合は消費される一方の消耗品みたいなもので、画面に合わせて音楽を流していればとりあえずいいよね、ぐらいなものでしょう。
 街を歩いていても音楽。商店街を歩けばスピーカーから音楽が垂れ流され、店の中に入っても雰囲気作りのために音楽。どこに行っても音楽、音楽、音楽。

 こんなにも音楽が私たちの生活に密着しているにも関わらず、自ら選択して音楽を聴こう、演奏しよう、という機会は少ないような気がします。人によっては皆無かもしれません。垂れ流された音楽を聞くだけなので受動的。良いなと思って買った音楽でも、本当に選択して買っているかというとちょっと怪しいかもしれません。

 良い音楽は時代を越えます。百年後に生きた人が手に取って聞いたとき、新鮮であること。それが重要なのです。ジャンルを問わず、時代から取り残されてしまう消耗品としての音楽。そうならないための曲作りをしなければと、街を歩きながら思いました。

音楽の正体

Amazon.co.jpより

 十年ほど前(もっと前かな?)やっていた深夜番組。音楽というのはどのジャンルでも体系的に見ていかなければなりません。一ジャンルの体系がわかってしまうと、他のジャンルも大体同じだと気づくでしょう。そこから、自分好みで取捨択一していくのも一つの選択肢かもしれません。
 良いものにジャンルは関係なく、クラシックだろうが、ジャズだろうが、ポピュラーだろうが、歴史に流されない、淘汰されない音楽が必ずあります。

03.10.28(Tue) 十月の冷たい雨
 舞台の幕が下り照明の落ちたような暗い朝。床に付いた足から冷たさが全身を駆け、僕を目覚めさせます。耳を澄ませば雨の音。

 ピアノの蓋をそっと開け、指でそっと鍵盤を撫でる。指に伝わる冷気、ピアノの音、それをうち消す雨の音。時折激しく、あるいは優しく、一定の時を刻み、雨粒が落ちていく。雨音との競い合うかのように、僕は白鍵と黒鍵のに指を滑らせる。時折激しく、あるいは優しく。いつもよりほんのちょっぴりと湿った音がするのは気のせいでしょうか。音は部屋を漂い、雨のように地面に落ちる。
 静かな音の所で手を休めて紅茶を口に付けると、雨音がより一層聞こえます。車が道を行く音はいつもよりしっとりと。束の間の休息。

 再び始めから。押さえ気味に音を感じ取りながら。雨のように一定の時を刻みつつ。いつしか雨の音も消え、ピアノの音だけが僕の心を占めていきます。気分の高揚、雨も忘れるほどの。弾き始めよりも生き生きと。
 しかし、降り止まぬ雨はありません。雨が上がるように、いつの間にか止むように。ぽつぽつと、変イの音が消えていく。

 ピアノを弾く前にあった静けさが部屋に戻ります。穏やかな気分、しかし晴れの日のようなすっきりとした気分ではありません。

 舞台の幕が上がり小さな明かりが舞台を照らしたような暗い夜明け。ピアノのペダルに付いた足から冷たさが全身を駆ける。

 通称「雨だれ」、ショパンの前奏曲十五番を弾き終わりピアノの音は消えたけれど、耳を澄ませば雨の音。時折激しく、あるいは優しく、一定の時を刻み、雨粒が落ちていく。

ショパン「前奏曲」Op.28-15

A PiECE OF CAKE、music、classical musicより

 僕はショパンを聴くのがあまり好きではないけれど、自分で弾くのは好きです。矛盾しているようですが、本当の話。ショパンを聴いていると眠くなってくることが多いです。弾くと楽しいんだけどなぁ、どうしてでしょう?

ショパン「前奏曲」Op.28-15

ショパンと私、プレリュードより

 こちらは譜面で解説しています。内声でバスをなぞって響きを補充しているところ一つとっても、ショパンはすごい。内声がなかったら締まりがなくなること疑いなし。

03.10.29(Wed) 調と調の狭間で
 調性というのは面白いもので、カデンツが出てくると途端に何調か判別出来てしまう。ドレミファソラシドの音階固有音が全て出そろってしまうから、耳が勝手に感じ取ってしまうのです。歴史を見るに、ドレミファソラシドという音をぼかそうぼかそうとして調性が崩壊しました。調性の音を取り除く努力なので、調性崩壊は当然の結果かもしれません。でも、調性があった方がやっぱり人間の耳には心地良いし、第一歌いやすい。
 一つの試みとして複調があります。曲の全体、あるいは部分的に、二つの調が混ざる。すごく近い調関係であれば音が融和し、一音か二音の曖昧な雰囲気を楽しむことになります。復調じゃありませんけれど、短調の旋律的短音階と和声的短音階が同時に出たときに、よくこういう感じの音になりますね。もっと複雑になると遠い関係の調、例えばC-DurとFis-Durみたいな関係。これはバルトークが最も得意とするところです。ミクロコスモスにあるバグパイプという曲を聴くと良いかもしれません。
 僕自身の最近の傾向として、部分的な複調を好んで使うようです。特に緊張度が高くなるようなところで遠い関係の調を借り、元の調性に戻るという感じなのかな。もしくは、借りてきた調性を基調として次に行くとか。でも、ハッキリとどの調とどの調が複調になっているのか判別し難いのです。その場その場でどうとでも解釈出来るというか。
 どうしてそんなややこしいことを、とお思いでしょう。たぶん、二十代前半からの嗜好であったテンション音が7-9-11-13とどんどん拡大していって、且つ同時にいくつも使用した結果、そのテンション和音が他調の和音と合致てして面白いと感じるようになったからなのかな。ぼやけた印象と緊張を同時に出したいが故に複調を使うようになったと自己分析。

diary031026.pdf
diary031026.mid

 「和音と旋律」練習曲、楽譜完成しました。和音の刻みと和音をつかむ練習、それに左手で旋律を取るのが練習の趣旨です。この曲はテンポの揺らぎとダイナミクスに注意を払うこと、楽譜には書いていないので奏者がよく考えてください。メトロノームのように弾くと音楽が死にます。
 一番最後の音、まさに複調です。この音以外にはありません。内声のメロディーが下降していき、最後のAsが到達点。Asを強めに弾き、他は弱めに。pppにしていますが、これだけ音がぶつかっていると大きな音が出るので要注意。
 いろいろごちゃごちゃ書きましたけれど、難しく考えずに楽しく弾いてください。

03.10.31(Fri) 音楽の誤字脱字
 何か文章を書いたとします。手紙、読書感想、小説、ジャンルは問いません。では書き終えてから何をするか。もちろん書きたての文書を見返しますよね。要するに間違い探し。ここでの間違えとは意味が二重に取れるような文法ミスによる悪文(わざと二重に取れるように書く文章とは別)、誤字・脱字などの単純なミスから、内容の間違え(取材不足であったり説明不足のような)など様々。
 しかし、当の本人は書いた直後の興奮と思いこみから、間違えに気づかないことが多々あります。出版する文書であれば校正者が誤字・脱字をチェックしてくれますが、個人では望むべくもありません。ではどうするか。一番良いのは書いた次の日、興奮が少し収まってから見返すことです。見ているうちに単純なミスが見つかるかもしれません。人に読んでもらうのも良い手です、客観的に見てくれることでしょう。

 さて、音楽の場合にも文章と全く同じことが当てはまります。作曲家は書いた瞬間かなり舞い上がっていて困ったもの。冷静に見る、なんて出来ないかもしれません。そこで一日二日開けて、楽譜を見返します。音符の間違えももあるでしょうし、アーティキュレーションが納得行かないことも。

 昨日公開しました「和音と旋律」練習曲、これもやっぱり書き終わってから悩んだのです。一音二音のこだわり、アーティキュレーション、誤字脱字に相当する浄書ミスなどなど。MIDI公開してから悩み、浄書が終了してPDF化し公開してもなお悩む。
 実は公開後、掲示板の書き込みで「難しい音が入っている」「間違って弾いてしまってもわからない」とのご指摘があり、それは響きが複雑で耳に馴染みにくいからなのかなと思っていたのです。でも、楽譜を見ないで弾くとすごく難しいという程でもない。どうしてなのか。その部分を見ながらピアノで弾いてみると、確かに弾きにくいのです。

 ここから導かれる答え。作曲者本人、つまり僕自身の頭の中では完全に音が出来上がっているので見なくても弾ける。しかし、それは作曲者である僕だけの話。譜面が変で読みづらいから「間違って弾いてしまってもわからない」となったのでしょう。文法上あっているけれど何となくおかしな文、みたいな感じでしょうか。
 譜面上で具体的に説明すると、四ページ目あたりの臨時記号がたくさんついている部分。例えば、CとCesが同時に存在する曲は少なく、Cにナチュラルを付けた方が親切。同じようなミス(DとDes)がいくつかあり、それらを修正しただけでかなり弾きやすくなった気がします。間違って弾けば「あ、間違えた」となるのでは。どうでしょうか。

diary031026.pdf
diary031026.mid

 昨日のものと今日のものと見比べてみるのも面白いかもしれません。今日の修正版の方が弾きやすいこと請け合いです。

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