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04.02.02(Mon) 今日も日は昇り、また沈む
 夜ベッドに入る時に時々考えることがあります。今日一日で何をしたのか、それはどんな意味を持つのか、それは僕自身が納得出来るのか、などです。

 多くの人は日々の暮らしでそうそう毎日特別なことをしてはいません、本当にごくごく平凡。一般人からほど遠いであろう映画スターの暮らしでも、スターから見ればそれもまた平凡な一日でしょう。しかし、その平々凡々な暮らしが納得し得るか、というと、人それぞれ違いますね。

 椅子にきちんと座って、五線紙を机に用意し、その傍らには書き味の良いペン。じゃあ今から曲を書き始めようかと思っても、たぶん曲は書けません。アイディアとか着想があって初めて曲は書き始められるのです。机に縛られた五時間よりも、たぶんぱっと思い浮かんだ五分の方が良い曲を作れるような気がします。
 一日に十小節、十日で百小節。こんな風に作曲は出来ません。それよりは着想とか構想を得たときにおおざっぱに書いた百小節の方が良い曲でしょう。

 つまり端から見ればまじめに作曲しているような五時間が全く使いものにならず、一見ぼーっとしているような五分が良い曲な場合だってあるということ。これはもう本人にしかわからないことなのです。机に向かっているだけの五時間が満足出来るか、納得出来るか。そうじゃないですよね。

 作曲で話しちゃいましたけれど、テレビ、本、会話、仕事、何でもいいんですよ。放送中ずーっとわくわくしていた番組と、つけっぱなしで惰性でだらだらと見た番組。犯人がすぐに分かってしまった推理小説と、最後の最後までどんでん返しがあってまったくわからなかった推理小説。どこかで聞いたことがあるような会話と、創造性あふれる話。同じ時間をすごしているのに、まったくう違う時間なのです。

 一日は二十四時間で、これは誰もが平等です。もっと時間があればいいのにな、一日三十時間、いや四十時間あっても足りないぞって思います。でも、これは時間の問題というよりも、時間の質の問題なんでしょうね。若くして亡くなった芸術家はたくさんいて、名が残っているのは明らかに質の問題でしょう。若死にしたから名が残っているわけじゃありません。長生きした芸術家でまったく無名な人だっているのです。

 良い作品が書けるかどうかはわかりません。もちろん書きたいに決まってます。ですが良い作品かどうかを決めるのは僕じゃなくて、みなさんと、後生の人たちが決めること。

 せめて自分自身が納得出来るように、質を高めた一日を過ごしたいものです。僕自身が納得出来ないものは、みなさんを納得させられるわけがないですからね。

恋はデジャ・ブ

シネマキネビュラ/ユービック・ファクトリーより

 本当に納得できる一日って難しい。一年のうちに一日か二日か、大甘判定でそのぐらいじゃないでしょうか。まぁ、曲が書けた日などは納得はしなくても満足な一日ですね。
 さてこの映画。数年前に見て気に入ったんだけれど、名前をずーっと忘れていました。見たい見たいと思いつつもずいぶん時間がたってしまったんですが、ようやく今日録画することが出来ました。朝何気なくテレビガイド見て名前がわかり、急いでタイマーセットしたんですよ。うれしいなぁ、暇が出来たら見ることにします。

04.02.04(Wed) 反応と関心
 人と話をしていると妙に反応が悪い時があります。初対面の時なんかは特にそういう傾向が強い。これはごくごく当たり前のことで、相手がどこに関心を持っているのかがわからないからです。そのため初対面やあまり回数を会っていない人同士だと、どこに関心があるのかお互いに探り合いながら話すことになりますね。

 ラーメンが嫌いな人にラーメンの話をしても、ふーん、へーそうなんだ、みたいな反応でしょう。サッカーが好きな人に野球の話をしても、やっぱり同じようにつまらなそうな反応が返ってくることが多い。
 同好の集まりであれば、まずこんなことは起らないでしょう。ラーメンが好きな人だったらどのラーメンが好きだとか、どの店が美味いとか、そんな具合に話が弾むに違いありません。

 関心があるところに反応がある。音楽でも同じことなんだなって、強く感じるようになりました。例えばピアノ弾きにピアノの話をすれば盛り上がりますよね。でも、それが弦楽四重奏の話になったら全く会話にならなかった。とか、作曲をしていますと言ったら強い反応を示してきたのに、それがクラシックであるとわかった途端に興味を失ったような顔をしたなどなど。
 音楽という大枠に対して関心がある人ならば音楽全般の話をしても大丈夫ですが、ピアノにしか興味のない人にオーケストラの話をしてもあまり反応がないですし、ポップスしか興味がない人にはクラシックの話をしても反応がほとんどない。

 商業音楽の場合ですと、相手の反応というのは一番気になるところ。売れなきゃ困る、マーケティング戦略ですから気になって当然です。ただし、反応があるからといって反応頼みに曲を書いたとしても、多くの場合流行もの以上にしかならないのかもしれません。そして、そういう曲はたいてい寿命が短い。
 相手の関心や反応を度外視して作りたいものを作ったときに、逆に相手の関心を買うことが出来るし寿命も長い。そういう場合も多くあるのです。

 相手の反応を伺いながら曲を作るのか、それともそんなものを気にせずに進むのか。どちらが良いとは一概には言えません。ただ、作る側としては作った結果反応があればうれしい、ということです。

オリコン ENTERTAINMENT SITE

 オリコンを見ていると反応と関心というのをよく感じます。大衆の欲するところとかみ合わないとチャートには入りません。ただ、入った曲が名曲かどうかはまったく別の話だとは思いますけどね。

 商業音楽家としての僕は相手の都合にあわせて曲を書きます。長いつき合いがある人だと嗜好もわかってくるしやりやすいのだけれど、その人だけが満足しているんじゃないのかと、僕としてはとても訝しいのです。
 クラシックを書いている僕は、自分が喜ぶように書けば人も喜んでくれると信じています。積極的に書けばそういうことになりますが、消極的にはそう思わないとやっていられないというのが本音。心中複雑です。

04.02.06(Fri) 作曲家の企業努力
 企業による事件が後を絶たない昨今。雪印の事件、牛肉の産地偽造、自動車のリコール隠し等、数えるのも馬鹿馬鹿しくなってきます。会社は利益を上げるのを第一の目標にしていますから、そうしたいのもわかります。が、その会社が儲かっているかどうかはその会社内での話で、客である私たちにはまったく関係ありません。

 お客は何でその会社のものを買うのか。それは製品が良いとか、サービスが良いとか、客自身の利益のためですよね。何もその会社を儲けさせてあげたいから買うわけじゃありません。内輪にその会社の人がいたり、その会社の人が特に気に入った場合はまた話は別ですが、複雑になってしまうのでここでは論じないことにします。
 ということは、まず何よりもお客を満足させることを心がけて製品開発をしたり、サービスをしなければなりません。社内だけで勝手に盛り上がって消費者である私たちをないがしろにしてしまっては、売り上げにつながらないですよね。

 作曲家も同じことが言えるかもしれません、確定申告すれば作曲家も一個人企業ですからね。だから自分だけの利益のみで曲を作るというのは間違っています。現代音楽においてどう考えても本人しかわからない曲というのはたくさんあって、そんなものを消費者が望んでいるかと考えればそうじゃない気がします。インテリぶってわからないものがかっこいい、あるいはお気に入りの作曲家だからわからなくても買う、という人はまた別の話ですよ。
 わかりやすいポップスだけを書けばいい、というのもまた違います。ただわかりやすいだけのものはあっという間に陳腐化してしまうでしょう。あまりに単純すぎるものは飽きられやすいのでは。僕にはブランドもの信奉などありませんが、ああいう物を持つ気持ちと一緒なのかもしれません。物が良くて飽きがこない、長く使っていける。そういう魅力です。

 お客のことを第一に考え、製品なりサービスなりをより良い物へと高めて提供する。これが企業努力というものでしょう。決して土地売買したり株ゲームに明け暮れ、利潤追求をすることではないのです。

ピアノソナタの構築と分析

Amazon.co.jpより

 ベートーヴェンがいかにして作曲したのか、「悲愴」「熱情」ソナタの分析していくにつれてわかります。他にもソナタを分析している本はたくさんありますが、僕の知る限りでは唯一のソナタの分析です。そのぐらい他を圧倒しています。
 これを読んでから「細胞音型」を他の曲に当てはめて分析すると、そりゃもう驚きですよ。感覚的にはどの作曲家も細胞音型めいたことを意識していますが多くは動機音型どまり。バルトークの四重奏はそれまでの分析方法でもすごいとわかっていたけれど、細胞音型の目で見るとどエライ曲ですよ。偏見無くいろいろな作曲家の曲を分析する必要性を痛感します。

04.02.09(Mon) 内的形式と外的形式
 作曲とは「統一」「持続」「変化」であると学生時代にたたき込まれました。突き詰めればソナタ形式(あるいはソナタ形式の精神)によって曲を書くということなのですが、当時はまったく意味がわかっていませんでした。ソナタとかロンドとか、形式をおおざっぱにとらえていただけ。
 ソナタ形式でも何でも良いのですが、形式と名が付くからには決まり事があります。ソナタで言えば提示部−展開部−再現部。その内訳は

・提示部(第一主題−経過句−第二主題−コデッタ)
・展開部(内容はいろいろ。再現部に入る前にオルゲルプンクト)
・再現部(提示部と同様のことが多い)

となっているのだけれど、実に多種多様なのです。第一主題は主調、第二主題は属調というのが多いのだけれど、これに限ったことではありません。平行調だって良いし、三度転調したって良いし、もっとも遠い調である増四度上(減五度下)もあるぐらい。だから典型的なソナタ形式なんて無い、と僕は思うのです。ただ、古典派にはそういうケースの曲が多かったというだけのこと。
 もっとソナタを見てみると、提示部が第三主題まであるもの、経過句が主題のようになっているもの、再現部で第一主題が欠けているもの、あるいは第二主題が欠けているものなどなど。こうなってくると、どれをもってソナタなのかということになってきます。

 ソナタは何によって形作られているか、これを見ていけば良いのです。第一主題を形成している動機素材。これが曲を形作っている、というのがおおざっぱなところ。動機素材の形がそのままの形で、あるいは移調され、時に拡大・縮小・反行して曲中に出てきます。これが統一感となっているのです。
 ところがもっと突き詰めていくと、動機素材よりも細かい部分で曲が構成されていることがあるのです。「細胞動機」と呼ばれる、動機を構成する最小要素と考えるのが良いのでしょうか。最小要素だけあって、もっと曲中に活用されています。音と音の間に音が入っても良いですし、極端な話その音が感じられるだけで良いのです。ベートーヴェンのジャジャジャジャーン、なんてそのまんま。あの音の二つの音だけを抜き出し音程を見てあげて、それが曲中にどう配分されているか確かめると至る所で見つかるでしょう。あるものは直接、あるものは間接的に、しかもすべての楽章で見つかるのです。

 これはベートーヴェンのような特異な作曲家だから出来うることなのでしょうか。そうではなくて、どの作曲家も本質的に持っているような気がします。ただ、それがどの程度曲に反映されているかというのは作曲家次第。

 面白い例があります。形式とは無縁と見られているようなドビュッシーですが、細胞動機をかなり研究していた節があるのです。ドビュッシーの曲に統一感は無いかと言えばそうではなく、動機素材の最小単位である細胞動機によって統一感のある曲を作っている。
 ここから導き出されるものは何か。ドビュッシーはいわゆる形式をまったく気にしておらず、内的な音楽を構成する要素そのものに気を配っていた。そして、その内的な動機素材こそ曲を統一させる力そのものであったために、曲の統一感が取れ、よって形式を使う必要性をみなかった。ということなのではないでしょうか。もちろん僕はドビュッシーじゃないから本当のところはわかりません。無意識でそういう風にやっていたとも考えられますが、意図してやっているように僕は感じます。

 作曲家は形式を使いたいから曲を書くのではありません。形式には典型が無く、また同じ形式でも二つと同じものがないことからも、作曲家は外的な形式にあまり意識を向けてはいないような気がしてならないのです。「統一」「持続」「変化」をいかに曲中で浸透させるか、というところが形式だと僕は理解しています。

ピアノソナタの構築と分析

Amazon.co.jpより

 二日続けて同じ本の紹介。学生時代にわからなかったことの一つが、形式とはなんぞやということでした。教授は「統一」「持続」「変化」を挙げていたけれど、卒業するまでずーっと外的形式に惑わされ、卒業後に動機素材に目がいくようになりソナタらしきものが書けるようになって、去年ようやく細胞動機を知るに至ったのです。
 この本では細胞動機の検証がされています。ベートーヴェンが細胞動機での全体統一を意識的にやっていたのか、潜在意識下でこうなるべきものと本能的にやっていたのか、ものすごく気になるところ。僕も部分的に潜在意識下で細胞動機を使っていますが、それはたまたまそうなっただけですし、一曲を通じてというのはもちろんありません。理由付けにこまったときに細胞動機で主題を書いてはいますけれど、全曲に浸透しているわけじゃないのです。もしベートーヴェンが無意識でやっているとしたら僕には到底真似出来ないし、意識してやっていたとしたら作曲が大変難しいものになるのは確実。思いつきで出来る要素がぐっと減り、作曲というより構築という雰囲気になるのかも。音楽の美しさはどうなるのか、というのもちょっと見えません。ですがやってのけている作曲家も少なからずいるので、やって出来ないことはないんでしょうね。でも、まだ方法論が見えません。

04.02.11(Wed) 削る技術
 物を増やすよりも減らす方が難しいんじゃないのか。たまにそう考えることがあります。本棚からはみ出しそうな本、買い込んで一向に飲む気配のない紅茶、録る一方で見ることのないビデオ。どうせ使わないのだから捨ててしまえ、と思わなくもないのですが、どうしても捨てることが出来ずに肥やしになってしまうのです。

 曲を書くのもこれらに似ています。良いか悪いか、使えるか否かは別として、曲のアイディアはいくらでも出せる。ただし、アイディアが出ただけじゃどうしようもないのが作曲。全体の統一がとれていなければまったく意味がないのです。曲中のA部分とB部分(第一主題と第二主題など)が違って聞こえるというのは対比や変化が出るのでよいのだけれど、今度は統一が取れなくなってしまう。統一が取れていない曲というのは聞いていてどこか違和感があるものです。
 そこで主題や動機、細胞動機をたたき台にしてアイディアを出していくことになるのですが、完成までにそのほとんどが削られます。まれに削らない時もあるのですが、そういう場合はかなり完成度が高いか、もしくはやる気がないかの両極端。やっぱり捨てるのは忍びないし、出来れば曲中で使いたい。なんて虫の良いことを考えながらの曲作りだと、どうしても統一感に欠けてしまうのです。

diary040211.mid / MIDI

「和音連打」練習曲

 あまり時間をかけないでパッパと書けるときもあれば、アイディアが豊富で削る量が多いときもある。メノモソで練習曲を書き始めてから、間違いなく今回が一番削りました。どうもしっくりいっていない気がするので、もうちょっと手を加えるかもしれません。でも、概ねこういう感じです。浄書は曲の見直し後にしますので、しばらくお待ちください。

04.02.12(Thu) 国の歌
 昨日今日とサッカーの国際試合を見ました、そうサッカーに興味はないのに周りに促されて仕方がなく。日本がイラクに勝ったことはそれなりに感慨深かったし、サッカー好きの人から受ける解説(隣でうるさい)もなるほどなー、と思ったんだけれど、それよりも気になることがあったのです。

 サッカーの試合前には必ず国歌を歌いますよね。相手の国も、自分の国も。しかし選手が歌を歌っているか見れば、そうではありません。カメラがすーっと選手に寄って顔が映し出されると、さも面倒くさそうに口元をごもごと動かしている。何も美声じゃないとダメだっていうことじゃなくて、国歌なのだからもうちょっと自分の国に誇りを持って歌っても良いんじゃないのかな、と思ったのです。
 ただ、よくよく考えると選手にも情状酌量の余地はあるのかなと。もうそろそろ卒業シーズンですから国旗掲揚、国歌斉唱の話題がメディアを騒がせることでしょう。君が代は国歌として認めて良いものかどうかわからない、あやふやな状態なのはご存じの通り。国歌としてはどうかなぁ、と思う人も多いでしょう。そんな歌に誇りを持てるかどうか怪しいですよね。

 それはそうと、申し訳なさそうにもごもごする口元はかなり格好悪い。歌には魂を鼓舞させる力もあるのだから、せめて大きな声で歌ったら良いのに。ウォークライとはいかないけれど。と、まったく興味のわかないサッカーを見ながら別のことを考えていました。

世界の国家

 スポーツで国と国とが戦うのだけれど、その時に自国に誇りが持てるかどうかで力の出る具合が変わるのかもしれません。そんなものとは関係なく、個々あるいはチームの自信によるのかも。どちらにしても、普段は国に誇りなどなくとも、せめてスポーツの時ぐらいは自国に誇りがあったほうが良いですね。ただ、その土壌が今の日本人にあるかどうかはかなり疑わしい。僕も日本人にしか書けない曲を書きたいとは思うけれど、その実あまり愛国心ないですし。

diary040211.mid / MIDI

「和音連打」練習曲

 掲示期間が短かったので再掲。何だか再現部が妙に引っかかる気もするし、これで良いのかもと思ったり。浄書に入れるのはちょっと遅くなりそうです。

04.02.14(Sat) 見た目の良さと使いやすさ
 人は見た目を気にします。建築、彫刻、絵画など芸術に関わることから、商工業製品に至るまで。ぱっと見たときに見た目が良さそうなら、手に取る率も多くなりますね。ただ、見た目が良いからといって使いやすいか、良いものかどうかはわかりません。

 視覚から得られる情報は多いのだけれど、それが全てではない。格好良いからという理由だけでスポーツカーを買って後から荷物が入らなくて後悔したり、店外にある見本が美味しそうだから入ったら美味しくなかったり、そういう事例は事欠きません。デザインはもちろんなんだけれど、使いやすさとか、美味しさなど、視覚以外が重要になってくるのです。
 優れた製品ならばデザインと使いやすさが兼備されていることが多い気がします。例えば北欧家具が人気になっていて、椅子なんかでもかなり風変わりな形をしていたとしても、椅子としての機能は全く損なわれていないのです。

 ピアノの鍵盤は視覚からも、触覚、聴覚共に優れた製品と言えるでしょう。もしピアノの鍵盤が立体的ではなく面だけで構成されていたらどうでしょうか。黒鍵部分があのようなインターフェイスになっていなかったとしたら、ピアノはずっと弾きにくいものになっているに違いありません。
 同じ曲が違う調性で書かれていたとします。一つはハ長調、もう一つはロ長調。ハ長調は譜面上では黒鍵が一つも出てきません。それに対してロ長調は調号がシャープ五個、全ての黒鍵を使います。多くの人はハ長調を選んでしまいそうですが、実はロ長調の方が弾きやすいことが多い。これは黒鍵が部分部分で指の支えになっているためです。E-Fis-Gis-Ais-Hと五本の指で弾いたときが、たぶんどの鍵盤を弾くよりも弾きやすく感じるのではないでしょうか。それは指の形がピアノのインターフェイスと合致しているからなのです。

 今、ピアノと指との関係を話をしました。しかし音を聞いただけではこのことはわからないし、譜面を見ただけでそうそうわかるものではありません。ロ調ではなくハ調の曲を選んでしまうように。
 見た目だけではいけない。使いやすさを考慮して、初めて良いデザインになるのでは。ロ長調の曲を弾きながらそう感じたのです。

ラフマニノフ前奏曲集

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 ピアノというインターフェイスをよくわかっていた作曲家の一人にラフマニノフがいます。ただ惜しむらくはラフマニノフは手が常人よりも遙かに大きく、限られた人にしか弾きこなせない。12度(!)を楽に掴めたそうです。
 ショパンもそうなんですが、いくつかの曲は音の感覚よりも指の感覚が先にきて作曲をしていたような気がしてなりません。

04.02.16(Mon) 歴史の潮流
 昨日ちょっとだけ建築や絵画などの他の芸術について書いたので、その続きを少々。どの芸術でもそうなんですけれど、歴史の大きな流れがあります。音楽が調性音楽の確立から崩壊への一途を辿ったように、他の芸術にも少なからずそういう風に動いているよう。
 そもそも芸術は形のあるものから形のないものへ、大きなものから小さなものへと動きます。つまり建築のような一番大きなものから、彫刻、絵画、音楽、文芸のよう小さなものへの移行です。順番が入れ替わる場合もありますが、概ねこんな流れでしょうか。だから音楽が調性の崩壊、つまりわかりにくい曲へ向かったときには、わかりにくい絵が音楽と同じようにどんどん生まれていったのです。

 こうした一連のわかりにくさへの流れについて僕はかなり否定的。その時代の作品のほとんどが、作家の自己満足としか思えないのです。

 わかりにくい作品はどうして生み出されたのか。これは作品への技術がそうさせたのではないのかと推測します。作品には作家の創造力が占める割合が非常に大きく、創造力が作品を生み出す原動力となるのはわかるのです。そして、その想像力の下支えになっているのが技術であり、技術無くして作品は完成させられません。想像力が作品の隅々に行き渡り、それを下から技術で支える。これが作品の理想的な形だと僕は思うのです。
 人は作品のどこを見るのか。何を見るのか。その作品の技術を見るのではなく、作者の想像力を見るのです。

 ところが、わかりにくい作品はまず技術を見せようとします。言い換えるなら、技術のための作品なのです。見るものがその技術をわかっていなければ全く意味が無いし、その技術をわかっているのは作者本人だけという本末転倒ぶり。これをありがたがって見聞きするのは正しいと言えるのでしょうか。また作る立場として、人に見てもらう側として、どうなのでしょうか。自分さえわかっていればそれでよいなら、別にそれでも構いませんけれど、発表するからにはそうじゃないのでしょうね。

 これから先に芸術がどういう方向に向かっていくのかはわかりません。ただ、もうわからないことをやっていればありがたがるという時代でないのは確かです。技術と想像力のバランスを。わかりやすく、かつ奥が深いものを。偉大な先人に敬意を表しつつ、全ての人に向けて。

作曲家の世界

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 ヒンデミット1955年の著。画家マチスで有名な作曲家、ヒンデミット。難しそうな曲をいくつも書いてはいるのだけれど、わからない曲は書いていないのです。バルトークにしても難しい曲を書いているけれど、やっぱりわからない曲は書いていない。技術は下支えであり想像力こそが作曲なのだと肌で感じていたのではないでしょうか。

04.02.18(Wed) 連打における表現と表記
 楽譜は人によって、時代によって、書き方が異なってきます。音そのものはそう変わりはないのですが、細かなアーティキュレーションやフレージングはかなり違うよう。

 みなさんご存じの通りショパンはピアノ曲ばかりを書いています。ピアノについてもっとも理解していた作曲家の一人と読んでも間違いではありません。ところが、あまりにもピアノについての理解が深かったためか、楽譜にその全てを書き込められなかったのです。

 例えば同音連打。ドドドドのように同音を連打すると、押し込んだ鍵が戻ってからもう一度押すために、どうしてもスタッカートになってしまう。ところがレプティション機構を使って321321のような指使いで素早く連打すれば、鍵が戻りきる前にもう一度鍵を押すことが出来るため、レガートっぽく聞こえてくるのです。
 同じ同音連打でも和音になると321321のような指使いは出来ませんから、どうしてもスタッカートになってしまいます。うまい人ならひょっとしたら鍵盤だけでどうにか出来るのかもしれませんが、スタッカートに聞こえるのを避けるためにはペダルをうまく使って擬似的にレガートっぽく聞かせる必要があるでしょう。

 ここでいろいろな作曲家の譜面を見てみると面白いことがわかります。ピアノの上手かった作曲家は、同音の和音連打のときにフレーズを書き入れないのです。つまり指だけではどうしてもレガートには聞こえないと感じるために、フレーズを書き入れたくても書き入れられない。ドビュッシーやラフマニノフはこういう場合には書き入れをしていないのです。
 ここでショパンの楽譜を見てみると、同和音連打でもフレーズを書き入れている。これは同解釈したらよいのでしょうか。指だけでは無理とは言いませんが、かなり指のコントロールが要求されるため表情をつけることは困難を極めるに違いありません。
 ピアノの詩人と呼ばれたショパンだったら弾ける?いや、そうではないと思います。ここで同和音連打にも関わらずスラーを付けているということは、やはりペダルを使えということなのでしょう。

 作曲家の心情として和音連打であったとしても、そこに表情を求めればどうしてもスラーを書き入れたくなります。実際に付けている作曲家もいますから。ただ、指だけで表現することが不可能なフレージング(スラー)を書いて良いものかどうか、判断に迷います。書き込まなければフレーズを誤解される可能性が高いし、書き込めば指で演奏不可能な表現ですから悩んでしまいます。
 結局のところ作曲家個人によると思うのですが、僕自身はどちらにするのかまだ迷っているところ。

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「和音連打」練習曲

 和音連打練習曲の浄書が完成しました。前回から改訂したために何小節か増え、また音にも手を加えました。前のファイルをお持ちの方は破棄してください。
 草稿を作り終えたらあまりに不具合が多くて嫌になっていたのですが、こうして完成してみるとまぁまぁの曲な気がします。指先だけで弾くと音が痩せてしまうので、体をつかって音量が出るようにしてみてください。

04.02.23(Mon) ピアノ練習曲の構想とひらめき
 どんな曲を書くときにもひらめきが必要ですが、練習曲も同様にひらめきが必要です。はノンのような単調なものを思い浮かべることの多い練習曲だけれど、それは指の運動にのみ焦点を絞った練習曲であり、音楽性が同時に要求されるようなものも少なくありません。ショパンの練習曲など指と音楽性とを同時に兼ねているのは一度でも弾いたことがある人ならご存じのとおり。

 曲を書くときにはひらめきが重要です。それはある場合は旋律で、またはリズムあったり、和声だったりと様々。ただ、それが曲の構想であった場合、自由度が高いだけにどうしたものか悩んでしまいます。例えば「三度」「混合拍子」「和音連打」練習曲などのように、旋律も、和音もなく、ただ構想だけがそこにある。
 旋律などが先にある場合「○○練習曲」と名を付けて曲を書くのは簡単です。そのまま題名に沿って書き進めていけば良いだけですから。

 ところが「旋回」「ヘミオラ」など、こういうのを書きたいなという漠然とした構想だけしかないものは、どうやって曲を書いたらよいのでしょうか。冒頭でひらめきと書きました。確かにひらめきは重要で、無いと曲が書けません。では、どうしたらひらめきを得ることが出来るのでしょうか。

 ひらめきは机の前に座っているだけじゃやってこない。だからといって闇雲にピアノの前でデタラメに弾いてもダメでしょう。曲を書きたいのならば、書きたい曲にあわせての研究や着想が必要不可欠で、それに応じてひらめきはやってくるのです。
 例えばです。画家、料理研究家、作曲家がいて同じ風景を見て何かに感じ入り作品に生かそうしました。出来上がった作品を見てそれぞれに話を聞いたとしたら、あの風景を見てインスピレーションが湧いたと言うかもしれません。それは個々の作家がそれぞれの背景(経験)に基づいて風景から何かを感じ取り、作品を仕上げたということなのです。ここで、画家と全く同じインスピレーションを作曲家が受けるとはとても思えないし、もし仮に全く同じインスピレーションを受けたとしても料理研究家と作曲家がそっくり同じものを作るとは考えられません。画家は絵を、料理研究家は料理を、作曲家は曲を作るのです。それぞれの知識や経験に応じて。

 曲をひらめくにしてもその土壌が必ず必要で、ひらめいたら良いなぐらいに思っているのだとしたらひらめくことはまずないし、まして曲など書けるはずもない。画家も料理研究家も作曲家も、常に、その作業をしている時間以外でもそれぞれの分野のことを考えているからこそ、ひらめきが生まれるといっても過言ではありません。だから風景を見てインスピレーションが湧いたのです。ひらめきは生まれるものではなく、生むものなのです。

 ひらめきを生み出すためであればどんな労苦も厭わない、作曲家にとって音楽的な勉強ならばそもそも労苦とは思えないはず。楽しい勉強ですからね。

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「和音連打」練習曲

 掲示期間が短いので再掲。目下「旋回」練習曲の構想を練っているのですが、音楽把握が不足していて研究中。先週は日記も書かず、遊びにも出かけず、ずーっとショパン練習曲やバルトークのミクロコスモスなどピアノを弾いていました。何となく掴めてきた気がするので、そろそろひらめきがやってきそうです。

ミクロコスモス

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松ぼっくりがフィボナッチ数列で出来ていることなどから着想を得て、自然から独自の語法を生み出したバルトーク。もし常に音楽のことを考えていなかったなら、松ぼっくりを見ても「あぁ、松ぼっくりだ」ぐらいにしか感じられなかったでしょう。

04.02.28(Sat) 何を書いたらよいのかわからない
 作曲をしている人と話をする機会があり、たまたま現在書いている曲についての話題になりました。僕は書きたい曲は山ほどあるのだけれど、彼は何を書いたらよいのかわからないとのこと。どう答えたら良いのか困ってしまいました。

 技術的あるいは精神的に詰まってしまいどうしたら良いのか皆目見当つかない、ということはよくあること。でも技術的に詰まったのならばどういう風に書き進めたら良いのか研究すればどうにかなるでしょうし、精神的に詰まったのなら少し気分転換したりあるいは違う曲を書いたりすれば良いことです。時間が無くて書けない、というのもあるかもしれません。ただ、何を書いたら良いのかわらかない、というのは正直なところ僕にはよくわからないのです。
 書きたい曲、書くべき曲は山ほどあります。エチュード曲集を書いている途中だし、ピアノソナタ、ソナチネも書きたい。ピアノ以外の楽器だってもちろん書きたい、ソロ楽器+ピアノの曲や木管・金管アンサンブル。演奏機会さえあればオーケストラの曲だって。やるべきことはたくさんあるのです。

 何を書いたら良いのかわからない、というのはそもそも作曲が好きではないのかな。と考えてしまいます。本読みが本がないと嘆く、こんなことは考えれられません。本屋にも図書館にも本はあり、読もうと思いさえすれば必ず読めますから。良い本が無いということはあるでしょうが、この世に幾万冊、幾億冊の本があることか。その中に本読みを満足させる本は必ずあるはずで、本当に好きならば草の根を分けてでも本を探し出す気がします。

 何を書いたら良いのかわからないなどと嘆いている暇などありません。何を書いたら良いのかわからないのであれば、無理して書く必要はない気がします。本当に書きたいのであればそんなことを言っていないで、好きな曲を思うように書くべきでしょう。もっとも、そんなことを言うとも思えません。

作曲家の世界

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 他の作曲家が何を考えているのか、というのは興味があります。ただ、作曲している時にどういう風に考えていたのか、どのような行程を経て曲が作られたのかが気になるのであって、ショパンにおけるジョルジュ=サンドとの関係などというような私生活についてほとんど関心がありません。気持ちの上で影響を及ぼすことはあっても、作曲には恐らく何ら関わりがないからです。他の作曲家のことなのでわかりませんが、あったとしても曲想ぐらいなものでしょう。

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