夜ベッドに入る時に時々考えることがあります。今日一日で何をしたのか、それはどんな意味を持つのか、それは僕自身が納得出来るのか、などです。
多くの人は日々の暮らしでそうそう毎日特別なことをしてはいません、本当にごくごく平凡。一般人からほど遠いであろう映画スターの暮らしでも、スターから見ればそれもまた平凡な一日でしょう。しかし、その平々凡々な暮らしが納得し得るか、というと、人それぞれ違いますね。
椅子にきちんと座って、五線紙を机に用意し、その傍らには書き味の良いペン。じゃあ今から曲を書き始めようかと思っても、たぶん曲は書けません。アイディアとか着想があって初めて曲は書き始められるのです。机に縛られた五時間よりも、たぶんぱっと思い浮かんだ五分の方が良い曲を作れるような気がします。 一日に十小節、十日で百小節。こんな風に作曲は出来ません。それよりは着想とか構想を得たときにおおざっぱに書いた百小節の方が良い曲でしょう。
つまり端から見ればまじめに作曲しているような五時間が全く使いものにならず、一見ぼーっとしているような五分が良い曲な場合だってあるということ。これはもう本人にしかわからないことなのです。机に向かっているだけの五時間が満足出来るか、納得出来るか。そうじゃないですよね。
作曲で話しちゃいましたけれど、テレビ、本、会話、仕事、何でもいいんですよ。放送中ずーっとわくわくしていた番組と、つけっぱなしで惰性でだらだらと見た番組。犯人がすぐに分かってしまった推理小説と、最後の最後までどんでん返しがあってまったくわからなかった推理小説。どこかで聞いたことがあるような会話と、創造性あふれる話。同じ時間をすごしているのに、まったくう違う時間なのです。
一日は二十四時間で、これは誰もが平等です。もっと時間があればいいのにな、一日三十時間、いや四十時間あっても足りないぞって思います。でも、これは時間の問題というよりも、時間の質の問題なんでしょうね。若くして亡くなった芸術家はたくさんいて、名が残っているのは明らかに質の問題でしょう。若死にしたから名が残っているわけじゃありません。長生きした芸術家でまったく無名な人だっているのです。
良い作品が書けるかどうかはわかりません。もちろん書きたいに決まってます。ですが良い作品かどうかを決めるのは僕じゃなくて、みなさんと、後生の人たちが決めること。
せめて自分自身が納得出来るように、質を高めた一日を過ごしたいものです。僕自身が納得出来ないものは、みなさんを納得させられるわけがないですからね。
■ 恋はデジャ・ブ
シネマキネビュラ/ユービック・ファクトリーより
本当に納得できる一日って難しい。一年のうちに一日か二日か、大甘判定でそのぐらいじゃないでしょうか。まぁ、曲が書けた日などは納得はしなくても満足な一日ですね。 さてこの映画。数年前に見て気に入ったんだけれど、名前をずーっと忘れていました。見たい見たいと思いつつもずいぶん時間がたってしまったんですが、ようやく今日録画することが出来ました。朝何気なくテレビガイド見て名前がわかり、急いでタイマーセットしたんですよ。うれしいなぁ、暇が出来たら見ることにします。 |