理解というのは実に面白い。どのぐらいの深さで理解するのか、わかるのか。浅いところでもわかった、理解したという言葉を使えるけれども、果たしてわかっているかと質問されると答えられない。あいまいにわかったと返事している事って、よくありますよね。
ある物事に対して深く考えていたとします。何となくもやもやとしていて、わかりそうでわからない。言葉に出来ないけれど、悪くない線までわかっているような気がする。たぶんそういう時にはちょっとしたヒントや示唆があれば、自分で明文化出来るほど理解出来るものです。そのヒントが考えている事柄に直接的に結びつくことではなくても、何らかの瞬間にわかってしまうことだって。 でも、そういう時はヒントを与えられなくても、たぶん自ずと解決すると思います。ヒントを与えられることによってクリアになるぐらいで、隣接領域まで自己解決しているわけですから。ただし、自己解決に到るまでどのぐらいの時間がかかるかはわかりません。一年かもしれないし、十年かもしれないのです。
その物事に考えが及んでいなかった時、気付いていなかった時、ヒントを与えられても理解出来ません。それは問題提起すら自分の中で起こっていないので、ふーんとか、へーそうなんだ、ぐらいの感じで軽く受け流してしまうでしょう。本当は重要な事項かもしれないのですけれど、感心がないので仕方がありません。例えどんな素晴らしい高説であっても、それこそ馬の耳に念仏なのです。
■ 塊魂
NAMCO.chより
統一することってこういうことなんだな、と気付かされるゲーム。酷いゲームはいくらでもあって、例えばそのゲームで使われている音楽の必然性がまったく感じられないとか。その音楽を別のゲームに持っていっても使える、というケースは非常に多い。パッケージの全てをひっくるめて一つの作品とするならば、ゲームの内容を中核に据え、そこから音楽だの映像だのを作り上げていくハズ。それにも関わらずいい加減な音楽のゲームは山ほどあり、しかもそれが良い音楽だと評価されてしまっている現実。理解なんていい加減なものです。 |