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04.04.02(Fri) 音楽への欲求
 音楽活動をする人、特に趣味でやる人にとって時間をいかに作るかは大問題。そこそこの熱心さでやるのならば特に問題はないのですが、趣味とはいえ真剣にやりたい人にとって時間は限られてきます。学生の時ならば時間はいくらでもあります、その代わりお金はないのですが、とにかく時間はふんだんにあり、場合によっては学校をサボっても大丈夫。しかしながら社会人だとそういうわけにはいきません。会社を有給以外で休むことなどは出来ないのです。

 だからどうやって時間を作るかが問題になってくる。普通の九時五時の会社ならば残業をしなければ楽勝です。家に帰ってやることを済ませてから音楽に向かえばそれでヨシ。でも、こんなに簡単にはいきません。残業やつき合いが待っています。つき合いを断ることは出来ます。でも昨今の経済事情を考えると残業を断るのはなかなか出来ません。
 ここからはモチベーションとの戦いです。もし音楽に強い関心がなければ、家に帰ればテレビ見てボーっとして寝るだけでしょう。しかし音楽をしたいという欲求が強ければ、たとえ疲れていたとしても音楽をすると思います。それこそ睡眠時間を削ってでも。残業の有無は関係ありません。強くやろうと思い、かつ行動に移せば良いのです。

 書くのは非常に簡単なこと。でも、なかなか出来ることじゃありません。気力はあっても体力が追いついていかない場合だってあるのです。家に帰ってから疲労困憊であったとしたら、モチベーションも上がらないでしょう。

 倒れたら困ります。困りますけれど、倒れない程度だったなら無理をしてでも曲を書きたい。と思っていつも倒れているので、大きいことは言えません。それに毎日作曲しているわけじゃなくて、インスピレーションとモチベーションが合致した時だけ、集中的に曲を書きます。それこそ二・三日徹夜や半徹などは当たり前。そのぐらいしないと曲なんて書けません。インスピレーション待ち、モチベーション待ちというのは効率が悪い。でもどうすればより良く時間を設けることが出来るのか、よくわかりません。ひょっとしたら音楽とのつき合い方が悪いだけで、もっと効率の良い方法があるのかも。

 時間がないとか、気力がないとか、全て言い訳にすぎない気がします。本当に好きならば言い訳などせず、一日に十分でもいいから音楽に触れる方が良いに決まっています。触れているうちにモチベーションやインスピレーションもわき上がってくるのような気がするし、たぶん間違ってはいないでしょう。
 つまるところ気の持ちようなのでしょうか、よくわかりません。音楽をしたいという欲求は何とも不可思議なものです。

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ピアノ連弾「バイエル91番風に」

 お待たせしました、楽譜の完成です。もっと早く浄書に手をつけたかったのですが、先週休んでいた分の作業がたまってしまってどうにもなりませんでした。こういう時にこそ、ちょっとでも良いから手をつけなければいけないのだけれど、どうしてもモチベーションが上がりません−という言い訳でした。すみません。

04.04.06(Tue) 理解の一歩手前
 理解というのは実に面白い。どのぐらいの深さで理解するのか、わかるのか。浅いところでもわかった、理解したという言葉を使えるけれども、果たしてわかっているかと質問されると答えられない。あいまいにわかったと返事している事って、よくありますよね。

 ある物事に対して深く考えていたとします。何となくもやもやとしていて、わかりそうでわからない。言葉に出来ないけれど、悪くない線までわかっているような気がする。たぶんそういう時にはちょっとしたヒントや示唆があれば、自分で明文化出来るほど理解出来るものです。そのヒントが考えている事柄に直接的に結びつくことではなくても、何らかの瞬間にわかってしまうことだって。
 でも、そういう時はヒントを与えられなくても、たぶん自ずと解決すると思います。ヒントを与えられることによってクリアになるぐらいで、隣接領域まで自己解決しているわけですから。ただし、自己解決に到るまでどのぐらいの時間がかかるかはわかりません。一年かもしれないし、十年かもしれないのです。

 その物事に考えが及んでいなかった時、気付いていなかった時、ヒントを与えられても理解出来ません。それは問題提起すら自分の中で起こっていないので、ふーんとか、へーそうなんだ、ぐらいの感じで軽く受け流してしまうでしょう。本当は重要な事項かもしれないのですけれど、感心がないので仕方がありません。例えどんな素晴らしい高説であっても、それこそ馬の耳に念仏なのです。

塊魂

NAMCO.chより

 統一することってこういうことなんだな、と気付かされるゲーム。酷いゲームはいくらでもあって、例えばそのゲームで使われている音楽の必然性がまったく感じられないとか。その音楽を別のゲームに持っていっても使える、というケースは非常に多い。パッケージの全てをひっくるめて一つの作品とするならば、ゲームの内容を中核に据え、そこから音楽だの映像だのを作り上げていくハズ。それにも関わらずいい加減な音楽のゲームは山ほどあり、しかもそれが良い音楽だと評価されてしまっている現実。理解なんていい加減なものです。

04.04.08(Thu) 繊細な一音、鈍感な一音
 ピアノを弾いていると、今弾いたところはこの音であっているの?という箇所を見かけることがありますね。それは決して少なくはなく、場合によっては譜面を見るのが嫌なぐらい多いときも。音の間違いがあってはいけないのは当然なんだけれど、間違ってはいないけれど繊細ではない音だってあるのです。

 小さい頃から楽器を習うと、親は絶対音感が身に付くことを多少期待します。でも、絶対音感が身に付いているから一音に対して優れた感覚を持っているか、というと違う気がします。
 絶対音感はあれば良いなとは思うけれど、なくても大した問題じゃありません。ピアノだと弦楽器のように自ら音程を作り出す必要がないですから、絶対音感の有無がピアノを弾くのに影響があるとは思えません。

 和声学を習うと、一音に対して鈍感になる。こんなことを言うと疑われてしまうかもしれませんが、これは事実です。例えば、属七から主和音に解決(終止)したとして。普通はどちらの和音も属音を入れるけれど、ソの音を主和音から抜けば透明な音になる。モーツァルトに多く見られる解決方法で、モーツァルトは耳で感じて譜面に書いたのでしょう。しかし、和声学を学んだ人は機械的にソの音を入れてしまうのです。
 絶対音感があっても、和声学を学んだ人は主音解決(終止)にソを入れてしまう。和声学を学んでいなかったら、耳だけで判断するならば、ひょっとしたらソを入れていないかもしれません。絶対音感があろうがなかろうが、音に対する繊細さにはあまり関係ないのです。耳の善し悪しは一音に対する直感力で決まるのでは。

 学生時代には音感がある人に憧れ、また到底敵わないなと思っていました。でも、絶対音感があるから良い曲が書けるとは限りません。むしろ、音感があるからこそ鍵盤を触らずに頭の中だけで書いてしまい、繊細さに欠ける場合もあるのです。ピアノ曲を書くのにピアノを使わなかったなら、指とフレーズの関係は損なわれるでしょう。音楽は頭の中だけでやるものではなく、外に出す。つまり譜面に書き入れ、演奏し、人の耳に入り、さらには心に訴えなければなりません。

 たった一音、されど一音。知識があるから、絶対音感があるから、良い曲が書けるとは限らない。一音一音に対する感覚の鋭さが良い曲を生み出すのかもしれません。

二声のインヴェンション

遠い日の夢より

 和声学や対位法を学ぶと、思い込みによって曲を書くようになります。声部の進行感覚を掴むのには必要なものだけれど、作業として音を書いてしまうようになるのは問題。最終的には耳で判断するしかないと思います。

04.04.10(Sat) 大人と子どもの練習曲
 頭で曲を書いていると見えてこないことがたくさんあります。時々、演奏家がどのように演奏するのかまったく見えていないことも。今バイエルレベルの練習曲を書いていますが、ここで困ったことが一つ。僕は十分成人していて、バイエルを演奏するであろう子どものことがよくわかっていないのです。
 まずは手の大きさ。おちびさんは当然ですが手が小さく、六度ぐらいがいっぱいいっぱいの子もいます。それにも関わらず七度を書いてしまえば弾けません。まぁ、こんなことは技術的なことなので難しいことではなく、すぐにどうにかする術を見つけられるでしょう。
 演奏に際して、大人と子どもではまったく違います。大人ならば簡単に弾けるだろうところが、子どもには弾けません。ちょっとしたスケールの変化音などでもつっかえる。大人なら練習すればすぐに修正出来るでしょう。でも子どもだといつまでもつっかえたままで、それが続くようだとストレスが溜まってしまい、ピアノ嫌いになりかねません。「このぐらいなら弾けるだろう」というのは作曲家の思い込み、というよりも大人の思い込みであって、子どもだと弾けないものは弾けないのです。

 音に関して子どもは純粋で、ちょっとしたことで感動します。まず子ども自身がちゃんと演奏出来ることに何よりも感動し、弾けるようになった曲を繰り返し何度でも弾きます。
 大人だと音に少々鈍感なところがあり、それは経験から来ている気がします。それまで多かれ少なかれ音楽体験を積んできていますから、ちょっとしたことでは驚きません。同一調性で一曲弾いてもあまり面白みを感じないかもしれませんが、子どもだと十分面白く感じてしまうことだって。だから拍子や調性や派生音を使う必要性はなく、逆に使うと気持ち悪く感じるのかもしれません。音楽体験がないので何をしても楽しいのです。

 大人と子どもでは手の大きさも技術もまるで違う。でも、共通する部分はあると思います。ピアノを弾く楽しさ、でしょうか。練習曲でも美を感じ、心に触れる。大人でも子どもでも、こういう練習曲なら弾いてみたい。と思わせる曲を書かねばなりません。

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ピアノ連弾「モールス信号」

 お待たせしました、ピアノ連弾「モールス信号」の浄書完成です。実のところバイエルぐらいだとどうにもならないことがわかってしまい、すっかり浄書のやる気を無くしていました。1stがこのままでは弾きづらいので、楽譜に沿わず即興的に弾いてしまってもかまいません。

04.04.12(Mon) 譜面と表現
 楽譜というのは完璧に見えて未熟なメディアで、誰が演奏しても同じにはなりません。誰かが演奏したものを聞いて真似をしようとか、意図せずお気に入りのCDの演奏と似通うことはあるでしょう。しかし、楽譜を見ただけで同じ演奏にはならないのです。

 例えば。ritと書き込んであったとしても、どのぐらいテンポを落とすかは奏者に委ねられています。大元になるテンポ、アレグロやレントも奏者の感じ方、考え方次第。ある人のアレグロよりも、別の人のアレグレットの方が速いなんてよくあること。
 作曲家がどこまで指定をするか。四分音符でいくつとか一小節ごとに指定してもよいのですが、そうしてしまえば奏者の裁量による演奏が出来なくなり、面白みがないものになってしまう気がします。

 作曲家がイメージする、作曲家自身の書いた曲。これは単なる思い込みなのではないのかと、最近よく考えます。作曲家はその場で最良である音を楽譜に書き込み、それと同時にフレージングやアーティキュレーションを書き入れます。しかし、そのフレージングやアーティキュレーションは本当にあっているのか、もっと別の可能性があるのではないのか。譜面を書き終わった後からいつまでも悩みます。いや、これは僕だけの話かもしれません。
 演奏家が譜面を見て、それを基に演奏をします。しかしながら楽譜は未熟なメディアですから、作曲家が思った通りの表情で演奏されるとは限りません。場合によっては、作曲家の想像以上の表現を見せてくれることも。そのような演奏を見せられてしまうと、自分が書いた譜面に自信が持てなくなるのです。つまり、本当はもっと表情があるのに、深く考えずに思い込みで書いたのではないのか。自身で作っておきながら、音楽を把握していないのではないのか。作業として音を書いているのではないのか。そう考えてしまうのです。

 作曲家は譜面でしか判断されないし、演奏家も譜面からしか曲を判断出来ません。そういう意味で作曲家と演奏家は対等であり、どうやって音楽を作り上げていくのか話し合いが必要なのかもしれません。死んでしまった作曲家と対話することは出来ませんが、僕はいまこうして文や曲を書いています。作曲家は演奏家から学ぶことは多いですし、きっと演奏家も作曲家から学ぶことがあるでしょう。

演奏法の基礎

 作曲家の狭い脳味噌と、そこから生み出されて書き込まれた譜面。音楽はここで終わりではなく、演奏されてこそ価値があります。
 演奏家と接するのは実りが多い。プロのピアニストに演奏してもらう機会があり、大いに考えさせられましたし、また勉強にもなりました。僕の曲が持っている力を十二分に引き出した、公開コンサートでお聴かせ出来ないのが残念なぐらいの、想像以上の音合わせでした。間近に迫ったコンペ本選が楽しみです。

04.04.14(Wed) 問いと答え
 問いと答えは表裏一体、近くて遠い。それでいて問いを出した瞬間すでに答えは出ている、そういう気がしないでもありません。

 曲を書くというのは間違いなく問いです。それは演奏家への問いかけ、聴衆への問いかけ、作曲家自身への問い。ですが、問うのと同時に答えがすでにあるのです。

 作曲家は常に問いを持っています。技術的なものであるかもしれないし、精神的なものでもあるでしょう。例えばベートーヴェンだとソナタ形式とは何ぞや、交響曲とは何ぞやという問いかけです。その問いに対する答えを追い求めて生涯をかけた、と言ってもいいかもしれません。だから32曲のピアノソナタの一曲一曲がベートーヴェン自身の問いでもあり、答えでもあるのです。その問いかけに満足な答えを見いだせなかったが故に、曲を書き続けたのでしょう。

 演奏家には演奏家の問いがあり、答えがあります。それは作曲家は何を考えていたのだろうという問いであり、演奏そのものがその答えです。奏法とは何か、美しく弾くにはどうしたらよいのか、というのはすべて曲を弾くための問いであり答えになるのでしょう。

 作曲家の問いと答えは曲を書くということに集約され、演奏家の問いと答えは演奏することに集約されます。

 もっと風呂敷を広げてしまうと、生きるということは何かとか、存在する意義は何かという問いに。僕が考えられる答えはただ一つ、現在生きているということです。つまり僕の生活態度そのものが答え。作曲することが全てではありませんが、一番重きをおいているのは確かです。

 問いはみなさんにも出ています。して答えはどうでしょう。問いかけは人それぞれ違いますし、答えももちろん違います。問いに対して最良の答えが導き出せるよう、怠けず頑張りたいものです。

宮沢賢治の宇宙

 この世に存在しているありとあらゆるもの、生きとし生けるものは問いと答えを持っています。それが強いか弱いかはまた別の話。
 宮沢賢治は春と修羅に代表されるように、自身へ強烈に問いかけをしていた気がします。

04.04.19(Mon) 作曲家の成長
 先週一週間、音楽イベントがいろいろありました。どんなイベントだったか仔細に語ることはしないけれど、ほんのちょっとだけ考えてしまうことも。

 作曲家は音楽との関わりでしか成長しない。これは諸説あるでしょうけれど、概ね正しいと思います。旅行をしていろいろ見聞きし考えたり、人と会って話をすることも勉強だけれど、それはたぶん人間的成長であって作曲家の腕とはあまり関係がない。
 海に行ってインスピレーションが湧くこともあるだろうし、山に入って第二主題が急に浮かぶことだってあるでしょう。それに人から物事を教わることも多い。でも、浮かんだだけではダメだし、考えただけでもダメ、教わっただけでももちろんダメ。作曲家の頭の中にだけ音楽があっても仕方がなく、五線紙に書いて初めて曲を書いたと言えるのです。

 また、曲を書くとその時は良くてもすぐに問題に気づきます。完成度という点ではひょっとしたら問題ないのかもしれません。でも、ああいう風にしたいとか、こうするべきであったとか、そういうことはしょっちゅう。だからこそ次の曲を書くのです。もし今書いた曲に満足してしまったら、たぶん僕は次の曲を書きません。しかしながら満足なんかとても出来ないので曲を書き、それが一生続いていくのだと思います。

 人それぞれ音楽に対するスタンスは違います。好きなジャンルも違うし、同じジャンルでも細分化されているし、同じ曲が好きであっても何故好きかという理由付けは違うでしょう。だから書く曲も人それぞれ違います。

 この一週間でいろいろな音楽経験をさせてもらいました。同じ場所にいた人たちは、みな同じ目的で曲を書いているけれど、それでもやっぱり違う曲になる。ひょっとしたら目的すら違うかもしれません。何を見るのか、どう感じるのか、どう考えるのか。試行錯誤の連続です。

musica-due

 作曲家は世の中にたくさんいるけれど、虚栄心に駆られたり、傲っていたり、曲を書かなかったり、価値観がまったく違ったりといろいろです。そのため付き合うのが本当に難しく、一緒にやっていけるという人はなかなかいません。
 左のバナーでお気づきの人もいるかもしれませんが、この度メノモソはぱにミュージックからmusica-dueに移転しました。野村茎一氏と僕と、二人の作曲集団です。こちらでは月一で一曲づつ(前半で一曲、後半で一曲。二人で月二曲)、著作権フリーの曲を提供していきます。他にもやって欲しいこと、企画等ありましたら、掲示板、メール等でお知らせください。

04.04.21(Wed) 心地よい音楽
 音楽のどこに喜びを見いだすのか、人それぞれ違います。和声かもしれないし、リズムかもしれない。旋律は欠かざる要素だけれど、ミニマルのように旋律があまり必要のない曲だって中にはある。

 人は誰でも心地よいものを求めます。好きこのんで不味い料理を食べる人はおらず、お金と時間と体調が良ければ高級料理を食べたいのかもしれません。でも、外で食べる虚しさを感じてしまう人は、たとえ高級料理店でも美味しく感じないでしょう。それよりは家で食べる料理の方が何倍も美味しく感じるかもしれません。人それぞれ持っている感覚は違うのです。
 音楽も然り。いくら良い音楽だからといってもバッハしか聞かない人なんて少数。たまにはチャイコフスキーだって聴きたいし、ヘレン=メリルの歌声やサンタナのギターを聞きたいかもしれません。ジャンルなど関係ないし、音楽の質もあまり関係ないのかも。極端に言ってしまえば、芸術だろうと娯楽だろうとそんなものはどうでも良いこと。聞いている人がそこに娯楽を見いだせばバッハだって娯楽だろうし、ベンチャーズだって立派な芸術になるかもしれません。とにかく聞いている本人が心地良ければそれでいいのです。

 誰にとっても心地よい音楽。作曲家が求めて止まないものですが、現実的に考えれば無理でしょう。クラシックが嫌いな人はクラシックを一括りに考え、古典もロマンも印象派も十二音も、みんな同じクラシックの一字で片付けてしまいます。
 まったくクラシックに興味がなかった人がある曲を聞いて好きになり、他のクラシックも聞いてみようと思った。こういう話はよく聞きます。でも、次に買うのが十二音技法だったなら嫌いになること請け合いです。クラシックでお話してしまいましたが、別のジャンルでも同じことは頻繁に起こるでしょう。それどころか、同じ作曲家だって心地よいものとそうでないものがありますし。

 わかりやすい音楽、わかる音楽、というのだったら話は簡単です。要は歌いやすければ良いのです。旋律がキャッチーだったら最高にわかりやすいでしょう。それとは反対に歌えなければわかりにくさは倍増です。部分的にでも歌心を感じるところがあるのならまだしも、まったく歌えなければ苦痛を感じるかもしれません。
 わかりやすい音楽といっても、それが心地よいかと問われれば答えはノーです。先ほども挙げましたけれど、人それぞれ好みは違う。例えば僕はブラームスやシューマンが苦手、はっきり言ってしまえば嫌いなのですが、好きな人も多いでしょう。もちろんブラームス自身は自分の音楽を心地よい音楽だと思って作っているに間違いありません。本人すら心地よくない音楽を書きたいとは思えませんからね。

 巷には「癒しの音楽」が出回っています。僕はこれにはものすごく懐疑的ですし、反発もしたくなります。一つのパッケージ(CD)にいろいろな人の曲が入っていることが多いのですが、その全部を好きになることはないかもしれません。一曲が良くて他は全てダメ、ということも考えられます。それだと癒されないし、心地よくもない。
 作曲側の観点から言わせてもらうならば、作曲家が作った全ての音楽は作曲家にとって心地よい音楽であり、癒しの曲でもあるのです。ジャンルを問わず全ての音楽が、ですよ。聞く人だって同じです、音楽を聞いて気持ちよくなりたいと思っているのですから。他の人はどうであれ、その人にとって心地よければどんな曲だって良いのです。それがその人にとっての癒しでしょう。

弦・打・チェレスタの音楽

Amazon.co.jpより

 バルトークの中でも緊張度の高い、厳しい音楽の一つ。これだって聞く人によっては心地よいし、カタルシスを感じるかもしれません。
 ひょっとしたら十二音技法でまったく歌えない曲だったとしても、好きな人にはたまらない魅力があり、心地よく感じるのかも。僕は歌えない曲に心地よさを感じませんけど、人それぞれです。

04.04.29(Thu) 持つ者と持たざる者
 しばらくこのサイトとメノモソメモの更新せず、このサイトのルートディレクトリであるmusica-due(ムジカ・ドゥーエ)構築に頭を悩ませていました。更新毎に文章を書いてhtmlでコーディングしてFTPでアップしてというのは明るい未来とは言えず、更新の度に面倒になり、すぐに開店休業になりかねません。そこでブログツールによるサイト作りを考えたのです。

 一年ほど前にメノモソをMovableTypeで作ろうとしたことがあったのですが、時間的な余裕とサーバの負荷を考えて止めました。前にインストールまでやっているMovableType、個人的には前に断念した記憶があるため良い印象はない。そこで今回はNucleusというブログツールで構築することに。
 MovableTypeは嫌だからNuculeusでやろう、ここからが大変でした。僕にはNucleusで使われているPHP言語の知識がまったくない。よって困ってしまったら自力解決など到底無理。多くの関連サイトを見て回る羽目になりましたが、何とか構築することが出来ました。

では二つのブログツールを使ってみての印象を簡単に。

MovaleTypeは最初から機能が豊富で至れり尽くせり、しかし機能が多すぎてどれをどういう風に使ったら良いのかわからず大変。

Nucleusは限定された機能しか持っていないため簡単に作れると思いきや、必要な機能(トラックバックとか)がそろっていないために大変。追加プラグインを入手しても、こちらの知識不足のために四苦八苦。


 こういうような事例はたくさんあります。付加価値を付けた商品はたくさんありますから。例えばコンピュータなんて最たるもので、店に売っているPCを買えば使いもしないソフトが山ほどバンドルされています。誰がどうやって使っているのか皆目見当つかないソフトも中にはあるのです。それとは正反対で安いPCを買うと必要なソフトは一切付いてこない、すべて自分の力でどうにかしなくてはならない、そういうPCも売っています。

 上での例だとネガティブな方向に持っていってしまいましたが、実際はどちらが良いのか一概には言えません。機能が多い商品だと使うソフトは消費者が取捨択一するだろうし、機能限定商品ならばカスタマイズする魅力がある。逆もまた真なり、なのです。

 持つ者(物)には持つものなりの喜びと悩みがあり、持たざる者(物)にもまた同様に喜びと悩みがあるのです。

musica-due.com

 野村茎一(tomlin)と三枝(TackM)の二人の作曲家による音楽サイト、ムジカ・ドゥーエと読みます。このサイト(メノモソ)はmusica-dueの一コンテンツという扱いになっております。
 musica-due.comの目玉コンテンツはMonthlyMusicで、月替わり(三枝と野村で一曲ずつ、計月二曲)で曲を掲示していくのでお楽しみに。 記事を投稿するのが二人なので、更新は多めになると思います。

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